【時代】 室町時代(戦国時代)
【生誕】 康正2年(1456年)
【死没】 永正16年8月15日(1519年9月8日)
【改名】 伊勢盛時 → 早雲庵宗瑞(号)
【別名】 通称:新九郎、諱:長氏、氏茂、氏盛、長茂、貞藤、貞辰
【官位】 左京大夫
【主君】 足利義政→義尚→義材→義澄→今川氏親
【氏族】 伊勢氏(後北条氏)

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概要 (説明はWikipediaより)

室町時代中後期(戦国時代初期)の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。

早雲の代の時はまだ伊勢姓であった。

早雲は戦国大名の嚆矢であり、その活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた。

しかし、近年の研究では室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である。

1950年代に発表された藤井論文以降、伊勢氏のうちで備中国に居住した支流で、備中荏原荘(現井原市)で生まれたという説が有力となり、その後の資料検証によって荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる)であることがほぼ確定した。

幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一である事も決め手となった。

従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたる事も出自解明に寄与した。

近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。

早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれており、決して身分の低い素浪人ではない。

早雲は盛定の所領、備中荏原荘で生まれ、若い頃はここに居住したと考えられる。

荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」の署名の禁制が残されている(ただし、花押が後のものとは異なる)。

井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている。

備中からは大道寺氏、内藤氏、笠原氏など後北条氏の家臣が出ている。

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を早雲の父盛定が務めている。

その縁で早雲の姉(または妹)の北川殿が義忠と結婚したと考えられる。

早雲が素浪人とされていた頃は北川殿は側室であろうとされていたが、備中伊勢氏は今川氏と家格において遜色なく、近年では正室であると見られている。

文明5年(1473年)に北川殿は嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

なお、伊勢氏との関係について、寛正6年(1466年)に発生した遠江今川氏の所領没収問題を巡って、貞親の実弟である伊勢貞藤が所領の没収と御料所化推進の中心的存在であり、この処分に反発する今川義忠・伊勢盛定の対立構図が生まれている事が注目される。

また、貞藤は細川勝元と対立して応仁の乱では西軍に属している。

かつては、早雲の出自の有力説の1つに貞藤の子とする説があったが、これらの事実とその後の早雲の経歴を考慮すると、この説が成立しがたい事になる。

京都で早雲は将軍義政の弟の義視に仕えたとされるが、近年有力視される康正2年(1456年)生まれとすると、義視が将軍後継者と擬されていた時期(1464年 – 1467年)には10歳前後で幼すぎ、応仁元年(1467年)以降、義視は西軍に走っている。

「伊勢新九郎盛時」の名は文明13年(1481年)から文書に現れる。

文明15年(1483年)に9代将軍足利義尚の申次衆に任命されている。

長享元年(1487年)奉公衆となる。

京で幕府に出仕している間、早雲は建仁寺と大徳寺で禅を学んでいる。

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「二本の大きな杉の木を鼠が根本から食い倒し、やがて鼠は虎に変じる」という霊夢を早雲が見たという話が『北条記』に書かれている。

二本の杉とは関東管領の山内上杉家と扇谷上杉家、鼠とは子の年生まれの早雲のことである。

明応3年(1494年)、関東では山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が再燃し、扇谷家の上杉定正は早雲に援軍を依頼。

定正と早雲は荒川で山内家当主で関東管領上杉顕定の軍と対峙するが、定正が落馬して死去したことにより、早雲は兵を返した。

扇谷家は相模の三浦氏と大森氏を支柱としていたが、この年にそれぞれの当主である扇谷定正、三浦時高、大森氏頼の3人が死去するという不運に見舞われている。

早雲は茶々丸の討伐・捜索を大義名分として、明応4年(1495年)に甲斐に攻め込み、甲斐守護武田信縄と戦っている。

同年9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取した。

『北条記』によれば、早雲は大森藤頼にたびたび進物を贈るようになり、最初は警戒していた藤頼も心を許して早雲と親しく歓談するようになった。

ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。

早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。

その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。

数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。

典型的な城盗りの物語で、似たような話は織田信秀の那古野城奪取、尼子経久の月山富田城奪取にもあり、どこまで真実か分らない。

金子浩之は、土石流を「牛」になぞらえた伝承があるという笹本正治の説を元に、早雲が1495年に起きた明応地震の津波に乗じて小田原城を攻めた結果、津波が「牛」と呼ばれたようになったのではないかと推測している。

あるいは火牛の計は中国の戦国時代、斉の将軍田単が用いた戦術で、教養を持つ知識層には知られていた可能性があり、これが事実用いられたか、武勇伝作りに利用されたと考えることもできる。

この小田原城奪取は明応4年(1495年)9月とされているが、史料によって年月が異なる。

黒田基樹は、明応5年(1496年)に山内家が小田原城と思われる要害を攻撃し、山内顕定の書状に扇谷家の守備側として大森藤頼と早雲の弟弥二郎の名が見られることを根拠に年次に疑問を呈し、それ以降のことではないかとしている。

『小田原市史』で小田原城奪取の件を執筆した佐藤博信も黒田と同様の見解を採るとともに、早雲の子・幻庵が大森氏出身の海実から箱根権現別当の地位を譲られたことや享徳の乱の頃(藤頼の父とされる氏頼の時代)に大森氏で内紛があったことを指摘し、早雲の進出もこの大森氏の内情に乗じたものと推定している。

また、明応10年3月28日(文亀元年/1501年)に早雲が小田原城下にあった伊豆山神社の所有地を自領の1ヶ村と交換した文書が残されており、この時点では早雲が小田原城を既に領有していたとみられている。

小田原城は後に後北条氏の本城となるが、早雲は終生、伊豆韮山城を居城としている。

小田原城奪取など早雲の一連の行動は茶々丸討伐という目的だけでなく、自らの勢力範囲を拡大しようとする意図もあったと見られていた。

だが近年の研究では義澄-細川政元-今川氏親-早雲の陣営と、足利義稙-大内政弘-足利茶々丸-武田信縄-上杉顕定の陣営、即ち明応の政変による対立構図の中での軍事行動であることが明らかになってきている。

旧来の説では同じ扇谷方の大森氏を早雲がだまし討ちにしたことになるが、近年の研究ではこの小田原城奪取も大森藤頼が山内上杉氏に寝返った為のものと考えられている。

明応8年(1498年)、早雲は甲斐で茶々丸を捕捉し、殺害することに成功した。

茶々丸を討った場所については、伊豆国の深根城とする説もある。

今川氏の武将としての活動も続き、文亀年間(1501年 – 1504年)には三河にまで進んでいる。

『柳営秘鑑』によると文亀元年(1501年)9月、岩付(岩津)城(愛知県岡崎市岩津町)下にて松平長親(徳川家康の高祖父)と戦って敗北し、三河侵攻は失敗に終わっている。

松平方の先陣の酒井氏、本多氏、大久保氏の働きがあったという。

ただし、徳川実紀では永正3年(1506年)8月20日のこととされている。

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その後、早雲は相模方面へ本格的に転進し、関東南部の制圧に乗り出したが、伊豆・西相模を失った山内顕定が義澄・政元に接近したため、氏親・早雲の政治的な立場が弱くなった。

更に、政元が今川氏と対立関係にある遠江守護斯波義寛と顕定の連携を図ったことから、両者の挟撃も警戒されるようになる。

それでも早雲と氏親は、今度は義稙-大内陣営に与し、徐々に相模に勢力を拡大していった。

こうした関東進出の大きな画期となったのは、永正元年(1504年)8月の武蔵立河原の戦いであり、扇谷定正の甥で扇谷家当主上杉朝良に味方した早雲は、氏親と共に出陣して山内顕定に勝利した。

この敗戦後に顕定は弟の越後守護上杉房能と同守護代長尾能景の来援を得て反撃に出る。

相模へ乱入して、扇谷家の諸城を攻略。

翌永正2年(1505年)、河越城に追い込まれた朝良は降伏した。

これにより、早雲は山内家、扇谷家の両上杉家と敵対することになる。

永正3年(1506年)に相模で検地を初めて実施して支配の強化を図っている。

永正4年(1507年)には、管領細川政元が、排除されたことを恨んだ養子細川澄之により暗殺されるという「永正の錯乱」がおきる。

直後、政元と結んでいた越後守護上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される事件が起き、政元勢力の変動を機とした足利義稙は永正5年(1508年)、大内義興の軍勢と共に義澄を追って京に返り咲いた。

これらの動きにより、氏親と早雲に政権からの圧迫が無くなり、早雲は為景や長尾景春と結んで顕定を牽制した。

永正6年(1509年)以降は早雲の今川氏の武将としての活動はほとんど見られなくなり、早雲は相模進出に集中する。

ただし、少なくとも永正9年(1512年)頃まで早雲の駿府訪問が確認でき、同年には山内顕定に反抗する長尾景春の駿河亡命に早雲が関わったと考えられることから、その後も早雲と今川氏の関係は続いていたとみられる。

また、早雲の娘である長松院殿が今川氏の重臣の子である三浦氏員と婚姻したのは永正12年(1515年)頃と推定される。

永正6年7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣し、同年8月、この隙を突いて早雲は扇谷朝良の本拠地江戸城に迫った。

上野に出陣していた朝良は兵を返して反撃に出て、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵、相模で戦った。

早雲は権現山城(横浜市神奈川区)の上田政盛を扇谷家から離反させ攻勢に出るが、同年7月になって山内家の援軍を得た扇谷家が反撃に出て、権現山城は落城、三浦義同(道寸)が早雲方の住吉要害(平塚市)を攻略して小田原城まで迫り、早雲は敗北を喫し、扇谷家との和睦で切り抜けた。

一方、同年6月20日には越後に出陣していた顕定が長尾為景の逆襲を受けて敗死、死後に2人の養子顕実と憲房の争いが発生、古河公方家でも足利政氏・高基父子の抗争が起こり、朝良はこれらの調停に追われた(永正の乱)。

三浦氏は相模の名族で源頼朝の挙兵に参じ、鎌倉幕府創立の功臣として大きな勢力を有していたが、嫡流は執権の北条氏に宝治合戦で滅ぼされている。

しかし、傍流は相模の豪族として続き、相模で大きな力を持っていた(相模三浦氏)。

この頃の三浦氏は扇谷家に属し、同氏の出身で当主の義同(道寸)が相模中央部の岡崎城(現伊勢原市)を本拠とし、三浦半島の新井城または三崎城(現三浦市)を子の義意が守っていた。

早雲の相模平定のためには、三浦氏を滅ぼさねばならなかった。

敗戦から体勢を立て直した早雲は、永正9年(1512年)8月に岡崎城を攻略し、義同を住吉城(逗子市)に敗走させ、勢いに乗って住吉城も落とし、義同は義意の守る三崎城に逃げ込んだ。

早雲は鎌倉に入り、相模の支配権をほぼ掌握する。

朝良の甥の朝興が江戸城から救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。

さらに三浦氏を攻略するため、同年10月、鎌倉に玉縄城を築いた。

義同はしばしば兵を繰り出して早雲と戦火を交えるが、次第に圧迫され三浦半島に封じ込められてしまった。

扇谷家も救援の兵を送るがことごとく撃退された。

永正13年(1516年)7月、扇谷朝興が三浦氏救援のため玉縄城を攻めるが早雲はこれを打ち破り、義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せた。

激戦の末に義同・義意父子は討ち死にする。

名族三浦氏は滅び、早雲は相模全域を平定した。

その後、早雲は上総の真里谷武田氏を支援して、房総半島に渡り、翌永正14年(1517年)まで転戦している。

永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去した。

享年64。

後嗣の氏綱は2年後に菩提寺として早雲寺(神奈川県箱根町)を創建させている。

早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、その点から、戦国大名の先駆けと評価されている。

『早雲寺殿廿一箇条』という家法を定め、これは分国法の祖形となった。

永正3年(1506年)に小田原周辺で指出検地(在地領主に土地面積・年貢量を申告させる検地)を実施しているが、これは、戦国大名による検地として最古の事例とされている。

また、死の前年から伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている。

印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を止める体制が整えられた。

更にこれを関東の諸勢力(古河公方・両上杉氏など)との対抗上、足利一族である今川氏の権威を必要とし続けていた早雲が独自の公権力を発揮し始めたことを示すものあるという評価もある。

ただし、氏親の母である北川殿はまだ健在(享禄2年(1529年)没)であり、早雲自身は最後まで氏親の家臣としての立場を棄てることは無かったと思われる。

早雲の後を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を称して武蔵国へ領国を拡大。

以後、氏康、氏政、氏直と勢力を伸ばし、5代に渡って関東に覇を唱えることになる。

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