【生誕地】 荊州南陽郡
【生誕】 建安12年(207年)
【死没】 泰始7年(271年)
【字】 公嗣
【諡号】 孝懐皇帝、思公
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
三国時代の蜀漢の第2代皇帝。
魏に降伏したため、皇帝としての諡は本来ないが、漢の後継を称する劉淵によって諡を贈られた。
建安12年(207年)、父の劉備が劉表に身を寄せ、荊州の新野にいた時に側室の甘氏との間に生まれた。
翌208年に曹操が荊州を攻めた際に、趙雲に救われて九死に一生を得た。
孫夫人が、劉禅を連れて呉へ帰ろうとしたことがあったが、張飛と趙雲によって奪還されている。
劉備が益州の地を奪い、さらに漢中を攻め取って漢中王になると太子になった。
章武元年(221年)の夷陵の戦いにおいては、呉の孫権の征伐に赴いた劉備に成都の留守を任された。
劉備が夷陵において敗退すると、益州で反乱が勃発するが、諸葛亮らの働きでこれを鎮圧している。
章武3年(223年)、父の劉備の崩御に伴い17歳で皇帝に即位すると、諸葛亮らに政務を任せて国を守った。
建興12年(234年)に諸葛亮が死去した際には、劉禅は白い喪服を着て3日間哀悼の意を表し(『華陽国志』「広漢士女」による)、その死を喜び上表した李邈を怒りに任せ処断している。
蔣琬や費禕・董允などの能吏に支えられ国を維持していた。
劉禅自身の行為としては、後宮の人員増員を要請したり、遊興や行幸したという記録が多く残っており、董允や譙周に諫言されている。
[sangokushi-2]建興15年(237年)に皇后の張氏(敬哀皇后)が没し、延熙元年(238年)にその妹を新たに皇后とした(単に張皇后と呼ばれる)。
諸葛亮の死後、その遺表を遵守し荊州閥で北伐推進派の蔣琬を録尚書事・大将軍に任じ延熙元年(238年)には漢中に幕府を開かせ、成都の政は益州閥で北伐慎重派の費禕に一任した。
蔣琬は漢水を下って上庸へ侵攻する作戦を立てたが、己の持病が続発した為に実行に移せないでいた。
延熙4年(241年)10月、蔣琬に否定的な衆論を劉禅は費禕と姜維を遣わし伝達させ、漢中で3者は代替と成る涼州侵攻策を作成、延熙6年(243年)に上奏し裁可された。
同年10月、姜維が涼州刺史に就任し蔣琬は涪に駐屯した。
延熙7年(244年)に曹爽・夏侯玄の率いる魏軍が漢中に侵攻し、魏延が生前に秦嶺山脈中に築いた数多の陣地に拠った王平の督戦で撃退に成功した。
病が篤く成った蔣琬は董允と同じ延熙9年(246年)に没し、その後任に就いたのは諸葛亮の遺表通り費禕であった。
蔣琬から費禕に至る迄、本人が外地に在っても国家の恩賞・刑罰は全て両者に諮問してから実行された。
北伐推進派の姜維が出兵を申出ても、管轄する北伐慎重派の費禕は大敗に備え1万以下の兵しか与えなかった。
延熙11年(248年)に王平が没すると費禕が後任で漢中に駐屯する事と成った。
『魏略』では蔣琬の死後から劉禅が自ら政治をみるようになったとあるが、大赦を濫発するなど政治は弛緩し宮中は奢侈に流れた。
また董允の死が、それまで抑えられていた宦官の黄皓の台頭を許してしまった。
劉禅の黄皓への信用は高く、弟の劉永ですら黄皓のために宮中から遠ざけられる状況であった。
延熙12年(249年)に夏侯覇が蜀漢に亡命してきた。
劉禅は夏侯覇と会見し、「あなたの父(夏侯淵)は戦陣の中で命を落としたのだ。私の父が殺したのではないのだ」と言い、自分の子供を指さし示して、「この子は夏侯氏の甥にあたる」と言った。
かくして、手厚く爵位恩賞を賜った。
延熙14年(251年)夏に費禕は成都に帰還するも、「都には宰相の位が見当たらぬ」との占断で冬には北の漢寿(葭萌関)に駐屯、2年後に其処で正月の宴席で魏の降将郭循によって刺殺された。
先の占断は宰相の死を予言する物であった。
費禕の死を承け、国政を陳祗に輔弼された姜維がたびたび大規模な北伐を遂行したが段谷の戦いで鄧艾に大敗し、国内で己の政治的地盤を失った姜維は魏との国境である雍州の沓中で屯田を行い避難し、只でさえ貧弱な国力が更に疲弊した。
景耀元年(258年)に陳祗が没すると、後任と謂うべき才を持つ者は存在せず、北伐反対派である益州閥の諸葛瞻・董厥らが宦官の黄皓を姜維への掣肘に利用して政を執る様に成った。
その一方で閻宇は黄皓と結託し、黄皓は姜維と閻宇を交代させようと画策したという。
諸葛瞻・董厥は、姜維が戦争を好んで功績なく、国内が疲弊していることを理由に、姜維を前線から召還して益州刺史とし、その軍事権を奪うように劉禅に上奏すべきと考えていたという。
景耀3年(260年)には、関羽や張飛といった建国の功臣や夏侯覇に諡号を濫発した。
翌年には諸葛亮の子の諸葛瞻が取り立てられたが、黄皓の権力の掣肘とはならず、景耀5年(262年)には姜維が黄皓の殺害を企て、黄皓は姜維を讒言する有様であった。
[sangokushi-3]炎興元年(263年)に魏の軍勢が蜀に大規模な攻勢をかけると、姜維は援軍を求めた。
しかし黄皓は敵が来ないという占いを劉禅に信じさせたため、防衛は後手に回り、陰平方面から迂回して進軍してきた魏軍が、江油の馬邈を降参させた。
さらに綿竹で諸葛瞻が討ち取られると、抵抗の手段を失い、南方か呉への逃亡を図ろうとしたが、結局は北伐反対派で益州閥の譙周の勧めに従い降伏した。
劉禅は、降伏するときの仕来りに則り、自らの身を縛りあげ、棺を担いだ姿で、自ら魏軍の鄧艾の元を訪れたという。
このとき五男の北地王劉諶が抗議で一家心中している。
また、魏の将軍に略取されそうになった愛妾の李昭儀が自害したという。
景元5年(264年)、魏軍内紛の際に姜維より蜀再興の手紙を渡されたというが、結局反乱は失敗し、このとき姜維ら旧臣の多くと太子の劉璿を失った。
劉禅は生き残った子たちと共に洛陽に移送された。
伴した家臣は郤正などわずかな者だけであったといわれる。
また、洛陽で司馬昭に宴会に招かれた際の逸話が『漢晋春秋』に載っている。
その後、先祖代々の土地である幽州の安楽県で安楽公に封じられた。
長男の劉璿には先立たれていたため、後継者を決めることになったが、次男の劉瑤を差し置いて、六男の劉恂を後継にしようとしたため、旧臣の文立に諌められた。
泰始7年(271年)に65歳で死去した。
西晋によって、思公と諡された。
安楽公を継いだ劉恂は、道義を失う振る舞いを度々行い、旧臣の何攀・王崇・張寅とともに「以前に亡き文立忠言を振り返って、ご自身の振る舞いを改めてくださいませ」と諫言されたという。
最後は永嘉の乱に巻き込まれ、劉恂も含めて一族皆殺しにされた。
ただ、従孫の劉玄(弟の劉永の孫)だけが生き延びて、成漢を頼ったという。
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