【生誕地】 并州太原郡中都県
【生誕】 不明
【死没】 251年
【字】 彦龍
【主君】 曹操→曹丕→曹叡→曹芳
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国後漢末期から三国時代の魏にかけての人物。
字は彦龍。
并州太原郡中都県の出身。
子は孫宏。
孫は孫楚。
幼くして両親を失い、兄夫婦に育てられ、太学で学んだ。
王允は彼を一目見て只者でないと感じた。
曹操が司空になると彼を招聘したが、孫資は殺された兄の仇を討った直後であったので、家族を連れて河東郡へ逃げた。
その後も郡に招聘されるものの応じなかったが、友人の賈逵に勧められて仕官した。
そこで上計吏となり、荀彧から高く評価され尚書郎に任命されたが、断って河東へ戻った。(『三国志』劉放伝注引『孫資別伝』)
孫資は県令を歴任し、参丞相軍事となった。
魏国が建てられると劉放と共に秘書郎を任された。
曹丕(文帝)が即位すると劉放と共にそれぞれ左丞・右丞となり、黄初年間初期に秘書が中書と改められると、劉放が中書監、孫資が中書令となってそれぞれ給事中を兼任した。
また孫資は関中侯、劉放も関内侯を与えられ、機密を取り扱った。
[sangokushi-2]黄初3年(222年)に孫資は関内侯となり、曹叡(明帝)が即位すると劉放と共に散騎常侍を加えられ、楽陽亭侯となった。
太和年間末、呉が遼東の公孫淵を誘うため将を派遣したとき、孫資は他の臣下が反対する中で迎撃を主張して成功したため、その功績で左郷侯となった。
青龍年間初め、侍中・光禄大夫を加えられ、景初2年(238年)に遼東が平定されると、参謀としての功績により爵位を与えられ、中都侯となった。
曹叡は臨終の際、曹宇を大将軍とし、夏侯献・曹爽・曹肇・秦朗と共に曹芳を補佐させようとした。
しかし夏侯献・曹肇らは劉放・孫資を良く思っていなかった。
そこで劉放・孫資は曹叡に司馬懿を起用するよう勧め、方針を変更させた。
このため曹宇・夏侯献・曹肇・秦朗らが罷免されて、司馬懿と曹爽が曹芳を補佐することとなった。
[sangokushi-3]曹芳(斉王)が即位すると劉放・孫資とも加増され、子にも爵位や官位が与えられた。
正始元年(240年)には右光禄大夫・、儀同三司となり、同6年(245年)には中書令のまま衛将軍となった。
翌年、地位を退いたが、曹爽らが殺されると復帰し、侍中・中書令となった。
嘉平2年(250年)、驃騎将軍に任命されたが、翌年死去した。
貞侯と諡され、爵位は子の孫宏が継いだ。
孫宏の子が「枕流漱石」で有名な孫楚、孫楚の孫が『三国志』の注に引用されている『魏氏春秋』などの著作で有名な孫盛である。
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