【時代】 戦国時代~安土桃山時代
【生誕】 弘治3年(1557年)
【死没】 天正10年6月2日(1582年6月21日)
【改名】 奇妙丸(幼名)→信重(初名)→信忠
【別名】 勘九郎、三位中将、岐阜中将(通称)
【官位】 従五位下、出羽介、正五位下、秋田城介、従四位下、従四位上、左近衛少将、正四位下、従三位・左近衛中将
【主君】 織田信長
【氏族】 織田氏
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[sengoku-1]概要 (説明はWikipediaより)
戦国時代~安土桃山時代の武将・大名。
織田信長から生前に家督を譲られ織田家当主となったが、本能寺の変で自刃した。
岐阜城主。
弘治3年(1557年)に、織田信長の長男(信正 が実在すれば次男)として尾張国で生まれる。
実母は久庵慶珠。
乳母は慈徳院(滝川氏)。
なお濃姫が織田信忠を養子としたという説もある(勢州軍記)。
幼名は奇妙丸。
元服してはじめ勘九郎信重(のぶしげ)を名乗り、のちに信忠と改める。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していた。
『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去し、武田との同盟関係の補強として信忠と信玄六女・松姫と婚約が成立したという。
武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である徳川家康の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、元亀3年(1572年)に信玄は信長と敵対した将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応して織田領への侵攻を開始し(西上作戦)、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。
以後、武田氏では勝頼末期に織田氏との関係改善が試みられるものの(甲江和与)、信長が和睦を拒否した為、武田・織田間の和睦は成立していない。
元亀3年(1572年)1月に元服したと「勢州軍記」等にあるが、天正元年(1573年)4月1日付『兼見卿記』、また同年6月18日付の「朝河文書」でも、まだ幼名の「奇妙」で呼ばれており、諱の「信重」の名乗りが確認できるのは、同年7月が初見である。
『信長公記』でも、同年8月12日付けの北近江浅井攻めで出陣した記録が「奇妙」から「勘九郎」に変化しており、若干遅めだが17歳~19歳頃が元服の時期と推察される。
以来、信長に従って石山合戦、天正2年(1574年)2月の岩村城の戦い、天正2年(1574年)7月~9月の伊勢長島攻めと各地を転戦した。
[sengoku-2]天正3年(1575年)5月の長篠の戦いに勝利し、そのまま岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。
夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1,100余りを討ち取るなど功を挙げ、武田家部将・秋山虎繁(信友)を降して岩村城を開城させた。
以後、一連の武田氏との戦いにおいても、大いに武名を上げていく事となる。
天正4年(1576年)11月28日、信長から織田家の家督と美濃東部と尾張国の一部を譲られてその支配を任され、信長正室濃姫を養母として岐阜城主となった。
又、濃姫の弟である斎藤利治が信忠付きの側近(重臣)となる。
同年に正五位下に叙せられ、出羽介次いで秋田城介に任官し将軍格となることを目指した。
足利義昭は織田政権下でも備後在国の征夷大将軍であったため、織田家は征狄将軍になるしかなかった。
また、この官職は越後守護家でもある上杉家との対抗上、有意義であったともされる。
天正5年(1577年)2月に雑賀攻めで中野城を落とし、3月には鈴木重秀(雑賀孫一)らを降す。
8月には再び反逆した松永久秀討伐の総大将となり、明智光秀を先陣に羽柴秀吉ら諸将を指揮して、松永久秀・久通父子が篭城する信貴山城を落とした(信貴山城の戦い)。
その功績により10月15日には従三位左近衛権中将に叙任される。
この頃より、信長に代わり総帥として諸将の指揮を執るようになる。
12月28日には信長が持っていた茶道具のうちから8種類を譲られ、翌29日にはさらに3種類を渡されている。
天正6年(1578年)、播磨国の上月城を奪還すべく、毛利家の総帥・毛利輝元が10万以上の大軍を動員し、自らは備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景・宇喜多忠家・村上水軍の6万1,000人を播磨国に展開させ上月城を包囲した。
信長も上月城救援の為、信忠を総大将に明智光秀、丹羽長秀・滝川一益ら諸将を援軍に出し、三木城を包囲中の羽柴秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2,000人の織田軍が播磨に展開する。
しかし、膠着状態におちいったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、三木城の攻略に専念させる。篭城する尼子勝久主従は降伏し、上月城は落城した(上月城の戦い)。
天正6年(1578年)10月4日、月岡野の戦いにて、義理の叔父にあたる斎藤利治の親衛隊である加治田衆を筆頭に、美濃衆・尾張衆の信忠付き援軍を送り、労をねぎらい「ご苦労の段とお察しする」と尊敬と親族の念を込めての書状を送っており、織田信忠と斎藤利治の絆が深い事が書状より判断できる。
また同年から翌年の天正9年(1579年)にかけて、摂津で勃発した荒木村重の謀反(有岡城の戦い)の鎮圧にも出陣した。
天正8年(1580年)には、尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放された為、美濃・尾張の二ヶ国における支配領域が広がった。
天正10年(1582年)の甲州征伐では、総大将として美濃・尾張の軍勢5万を率い、徳川家康・北条氏政と共に武田領へと進攻を開始する。
信忠は河尻秀隆、滝川一益の両将を軍監とし、伊那方面から進軍して、信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略する。
高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知している(『信長公記』巻15)。
信忠の進撃の早さに、体勢を立て直すことが出来ず諏訪から撤退した武田勝頼は、新府城を焼き捨てて逃亡する。
信忠は追撃戦を開始して、信長の本隊が武田領に入る前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させた。
3月26日、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞し梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志も表明する。
論功行賞により、寄騎部将の河尻秀隆が甲斐国(穴山梅雪領を除く)と信濃国諏訪郡、森長可が信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられた事から、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国に影響力を及ぼす事となった。
[sengoku-3]天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の際には、信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍に向かうべく京都の妙覚寺(この寺には信長もたびたび滞在していた)に滞在しており、信長の宿所である本能寺を明智光秀が強襲した事を知ると本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治、京都所司代・村井貞勝らと共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所(御所の一つ)に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城し、善戦を見せた。
しかし明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、衆寡敵せずに自刃した。
介錯は鎌田新介が務め、二条御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じたという。
斎藤利治を中心に福富秀勝・菅屋長頼・猪子兵助・団忠正らと共に敵数多討取り勇勢を震い闘うが、信忠自害後「今は誰が為に惜しむべき命ぞや」と刺し違い、討死(忠死)した。
享年26。
父同様、その首が明智方に発見されることはなかった。
また、その奮戦の具体的な内容だが、『惟任謀反記』や『蓮成院記録』によると自ら剣をふるい敵の兵を斬ったらしい。
また、信忠の小姓に下方弥三郎という若者がおり、彼は奮戦して左足を負傷し脇腹をやられて腸がはみ出していた。
その姿を見た信忠は「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と述べたという。
信忠の言葉に弥三郎は感激し、笑いながら敵中に駈け出して討死したという。
この時、信忠は八王子に落ち延びていた松姫に使者を出しており、彼女を妙覚寺に招こうとしていたといわれる。
しかし再会を果たすことはできず、信忠自刃の報を聞いた松姫は八王子に戻り、出家して心源院で武田家と共に信忠の供養を行った。
一部の史料には信忠の子・三法師(織田秀信)の生母は実は松姫だったとするものもある。
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