『水野忠重』(戦国時代)を振り返りましょう

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【時代(推定)】:戦国時代~安土桃山時代

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水野忠重とは――信長・秀吉・家康の時代を渡り歩いた水野一族の有力武将

水野忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した武将であり、尾張国知多郡から三河国西部に勢力を伸ばした水野氏の一族として知られる人物である。天文10年(1541)に水野忠政の九男として生まれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下の主導権を握った勢力と深く関わりながら、三河国刈谷を中心とする水野家の領地を守り抜いた。通称には藤十郎、惣兵衛などが伝わり、のちには和泉守を称している。忠重を理解するうえで特に重要なのは、単純に「徳川家康の家臣」という枠だけでは説明できない点である。忠重が生きた時代、水野氏の領国は尾張と三河の境界に位置していた。東には今川氏、西には織田氏、さらに三河では松平氏が勢力を伸ばしており、どの勢力と結ぶかによって家そのものの存亡が左右される地域だった。そのため忠重の生涯も、ひとつの主君だけに仕え続けた武将の歩みではなく、織田政権、豊臣政権、徳川勢力という天下の枠組みの変化に対応しながら所領と家名を維持していく、戦国領主らしい複雑な経歴となっている。華々しい天下取りを行った人物ではないものの、中央政権が次々と交代する激動の数十年間を生き残り、水野家を近世大名へつなげたという意味では、戦国末期の重要な中間領主の一人であった。

天文10年に誕生――尾張・三河の境界を支配した水野忠政の九男

忠重が生まれたのは天文10年(1541)である。父の水野忠政は、尾張国知多郡緒川を本拠としながら衣ヶ浦の対岸にあたる三河方面へ勢力を広げた有力武将だった。忠政は天文2年(1533)頃に刈谷城を築き、それまでの緒川を中心とする支配から三河西部へ進出する足場を整えている。忠重はそのような水野家の領国拡大期に生まれたことになる。父の九男であったため、本来ならば忠重が水野宗家の中心人物になる可能性は高くなかった。水野家では長兄の水野信元が家督を継ぎ、父忠政が築いた勢力を受け継いだからである。しかし戦国時代には、嫡男以外の男子も軍事・外交・領地経営の重要な担い手となる。忠重も若い頃から水野一族の武将として活動し、やがて兄信元の死と織田政権内部の変動によって、思いもよらぬ形で刈谷を受け継ぐことになる。さらに水野家は徳川家康とも血縁で結ばれていた。忠重の姉にあたる於大の方は松平広忠に嫁ぎ、天文11年(1542)に竹千代、のちの徳川家康を産んでいる。そのため忠重は家康にとって母方の叔父にあたる。この血縁関係は、のちに徳川政権が成立した際、水野一族が徳川家の外戚に近い存在として扱われる背景の一つとなった。ただし、戦国期の血縁関係は必ずしも政治的同盟と一致するものではない。於大の方が家康の母であったからといって、水野氏が最初から一貫して松平・徳川方だったわけではなく、むしろ尾張の織田氏との関係を強めたことによって於大が松平家から離縁されるなど、家同士の利害は複雑に交錯していた。

兄・水野信元の死によって大きく変化した忠重の立場

忠重の人生を大きく変えた出来事の一つが、長兄・水野信元の失脚と死である。信元は父忠政の後を継いで刈谷を中心とする水野氏の勢力を率い、今川氏から離れて織田氏との関係を強めた。織田信長の勢力拡大に伴い、水野氏も尾張・三河を結ぶ重要な位置を占めるようになったが、天正3年(1575)、信元は武田氏への内通を疑われ、信長の命によって処断された。これによって水野氏は一時的に刈谷の支配権を失い、刈谷は織田家臣の佐久間信盛の支配下に置かれることになる。忠重にとっては、兄の死だけでなく、一族の本拠を失う重大な危機であった。しかし天正8年(1580)、今度は佐久間信盛自身が信長の不興を買って追放される。すると信長は、かつて信元が支配していた刈谷領を忠重に与えた。忠重はここで刈谷城主となり、水野家の旧領へ復帰することに成功したのである。戦国時代の所領は一度失えば取り戻せるとは限らない。兄が処断され、一族の政治的基盤が崩れた後に再び本拠を与えられた事実は、忠重が水野一族の中で有力な存在として認められていたことを示している。以後の忠重は単なる水野家の一族武将ではなく、刈谷を統治する領主として歴史の表舞台に立つことになった。

刈谷城主として水野家を再建――家康の叔父という立場だけではない実力

天正8年に刈谷城主となったことは、忠重の生涯における最大の転換点だった。刈谷は三河国の西端に位置し、尾張方面との交通を押さえることのできる重要な地域である。衣ヶ浦を利用した水運とも結びつき、古くから水野氏が勢力拡大の拠点としてきた土地だった。父忠政が築いた刈谷城へ忠重が戻ったことは、水野家の領主としての復活を象徴する出来事だったといえる。忠重については「徳川家康の叔父」という血縁関係が注目されやすいが、それだけで戦国末期を生き残れたわけではない。兄信元が信長の命によって処断された経験を目の当たりにしている忠重にとって、中央権力との関係を誤れば所領も生命も失われることは明らかだった。その後も信長の死、本能寺の変、豊臣秀吉による天下統一、徳川家康の台頭という巨大な政治変動が続くが、忠重はそのたびに新たな政治秩序へ対応している。この柔軟性こそ、忠重の領主としての大きな特徴だった。戦場で目立つ武功だけを見るならば、同時代の本多忠勝や榊原康政ほど著名ではない。しかし忠重の価値は、戦闘能力だけでなく、政権交代の中で水野家の領地を維持し、一族を次の時代へつないだ点にある。

豊臣政権の大名へ――和泉守叙任と伊勢神戸への転封

本能寺の変によって織田信長が倒れた後、天下の政治秩序は大きく変化した。羽柴秀吉が織田政権の後継者として急速に台頭し、やがて豊臣政権を築くと、東海地方の武将たちも秀吉を中心とする新たな支配体制へ組み込まれていく。忠重も例外ではなかった。天正15年(1587)には従五位下・和泉守に叙任され、豊臣姓を与えられたとされる。これは忠重が地方の一城主にとどまらず、豊臣政権下の大名層として正式に位置付けられていったことを示す出来事である。さらに天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原征伐によって後北条氏を滅ぼし、事実上の天下統一を完成させた頃、忠重は三河刈谷から伊勢国神戸へ転封された。先祖伝来の地を離れることは領主にとって大きな変化だったが、転封そのものは豊臣政権が全国の大名配置を組み替えていく政策の一環でもあった。忠重はその新秩序に従い、伊勢神戸を新たな拠点とした。つまり忠重は織田家によって刈谷を回復し、豊臣政権下では領地を移されながらも大名としての地位を保ったのである。この経歴からは、戦国後期の武将に求められた「勝ち残るための政治感覚」がよく見えてくる。

文禄3年に再び刈谷へ――先祖の土地への帰還

伊勢神戸へ移った忠重だったが、文禄3年(1594)には再び刈谷へ復帰している。父忠政以来の重要拠点であり、兄信元が支配し、忠重自身も一度城主を務めた土地へ戻ったことは、水野家にとって極めて大きな意味を持った。さらに文禄4年(1595)には三河国内で所領を加増されたとされ、水野家の領主としての基盤は改めて強化された。この頃の忠重は、若き日に一族の本拠を失った武将ではなく、豊臣政権の中で一定の地位を確立した大名であった。一方、家族の問題では嫡男・水野勝成との関係が大きな課題となっていた。勝成は非常に勇猛な武将だったが、若い頃から気性が激しく、忠重と衝突して勘当され、長期間にわたって各地を放浪していた。勝成は豊臣秀吉、佐々成政、小西行長などさまざまな勢力のもとを渡り歩いた後、慶長3年(1598)頃に徳川家康の仲介によって忠重と和解したとされる。父子の和解は単なる家族問題の解決ではない。嫡男を正式に家へ戻すことは、水野家の相続を安定させる政治的意味を持っていた。結果として、この勝成が忠重の死後に刈谷を継ぎ、さらに江戸時代には備後福山藩主として大きく発展することになる。

秀吉死後は徳川家康へ接近――血縁と政治判断が重なった晩年

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死去すると、豊臣政権内部では徳川家康の影響力が急速に拡大した。忠重にとって家康は姉・於大の方の子であり、甥にあたる存在である。しかも忠重自身、若い時代から家康勢力と深い関わりを持っていた。そのため天下の政治構図が家康を中心に動き始めると、忠重も徳川方に接近していった。慶長4年(1599)には、家康が大坂へ入る際に忠重と嫡男勝成が警護を務めたとされている。長年にわたって織田・豊臣という天下人の支配体制に適応してきた忠重が、最終的には徳川政権の成立へ向かう流れの中に位置したのである。忠重が後世に徳川家と縁の深い武将として語られる理由は、単に家康の叔父だったからだけではない。戦国末期の政治情勢の中で家康との関係を再び強め、水野家を徳川方へつなぐ役割を果たした点も大きかった。この流れは忠重の死後、勝成や忠清をはじめとする子孫が徳川幕府の大名・旗本として発展していく土台になった。

慶長5年7月19日の突然の死――関ヶ原直前に起きた刃傷事件

忠重の生涯は、天下分け目の関ヶ原の戦いを目前にして突然終わった。慶長5年(1600)7月19日、忠重は堀尾吉晴を迎えていた席で、美濃の武将・加賀井重望と同席していた。この席で忠重と重望の間に争いが起こり、忠重は重望によって殺害されたと伝えられている。享年60。加賀井重望は忠重を襲った後、堀尾吉晴にも傷を負わせたが、最終的には討ち取られた。事件の動機については史料によって細部が異なり、単純な口論から発展した刃傷事件とする説明のほか、関ヶ原直前の政治情勢と関連付ける伝承も存在する。そのため、忠重の死を断定的に「政治的暗殺」と見ることには慎重さが必要だが、少なくとも天下が東西両陣営へ分裂しつつある緊迫した時期に発生した事件だったことは確かである。もし忠重がこの事件で命を落としていなければ、家康の母方の叔父であり、刈谷を領する有力武将として関ヶ原本戦に参加した可能性は十分考えられる。しかし実際には、決戦を目前にしてその生涯を閉じることになった。

忠重の死後――水野勝成へ受け継がれた刈谷と水野家

忠重の死後、その遺領は嫡男の水野勝成が継承した。勝成は若い頃こそ父と対立して長く放浪した異色の武将だったが、忠重と和解した後は徳川方として活動し、父の死後に水野家の中心人物となった。関ヶ原の戦いでは東軍として戦い、その後、刈谷の所領を安堵されて近世大名としての地位を確立する。さらに後年には大和郡山、備後福山へと転封し、最終的に福山藩十万石の初代藩主となった。忠重が戦国時代の激しい政権交代の中で守った水野家は、息子勝成の代に江戸時代の有力譜代大名へと大きく発展したのである。また忠重の四男・水野忠清も徳川家に仕え、のちに大名となって刈谷を治めている。このように忠重の子孫からは徳川幕府を支える大名・旗本が数多く出ており、忠重の時代に形成された徳川家との結び付きが後世まで影響を残した。

水野忠重という人物をどう見るか――「家康の叔父」だけでは語れない戦国領主

水野忠重は、徳川家康の叔父という肩書だけを見ると、徳川家の血縁者として比較的安定した立場にいた人物のようにも映る。しかし実際の生涯はそれほど単純ではない。兄信元が織田信長の命によって処断され、水野氏が刈谷を失うという危機を経験し、その後に忠重自身が信長から旧領を与えられて一族を再建した。信長の死後には豊臣秀吉の支配体制へ入り、官位を得て伊勢神戸へ転封され、それから再び刈谷へ戻っている。そして秀吉の死後には家康との結び付きを強め、徳川政権成立の直前まで生きた。つまり忠重の約60年の生涯には、織田・豊臣・徳川という三つの巨大な政治勢力が次々と台頭する戦国末期の歴史そのものが凝縮されているのである。忠重自身が天下を争ったわけでも、巨大な領国を築いたわけでもない。それでも、主家や政治体制が変わるたびに立場を調整し、失われた旧領を取り戻し、水野家を存続させ、息子たちを徳川時代へ送り出した功績は小さくない。後世には徳川家に縁の深い武将として徳川二十将の一人に数えられることもあり、刈谷の地域史においても水野氏の支配を戦国から近世へ橋渡しした重要人物として位置付けられている。父忠政が築いた刈谷、兄信元が守った刈谷、そして忠重が取り戻した刈谷は、その後に勝成へ引き継がれ、江戸時代の刈谷藩へとつながっていった。水野忠重とは、表舞台で天下を動かした英雄というよりも、激変する政治環境を生き抜きながら一族の歴史を次代へつないだ「戦国と江戸の境目を生きた領主」と表現するのがふさわしい人物なのである。

■ 活躍・実績・合戦・戦い

若き日の忠重――水野一族の武将として経験を積んだ戦国前半期

水野忠重の軍事的な歩みをたどると、後年の「刈谷城主」という安定した姿だけでは見えてこない、戦国武将としての実戦経験の豊富さが浮かび上がってくる。忠重が生まれ育った水野氏は、尾張国知多郡から三河国西部にまたがる地域を基盤としていたため、織田氏・松平氏・今川氏といった大勢力の間で絶えず軍事的緊張にさらされていた。とりわけ兄の水野信元が織田信長との結び付きを強める一方、忠重は甥にあたる松平元康、のちの徳川家康との関係を深めていったとされる。後世に伝えられた水野家関係の記録では、永禄年間に三河で水野勢と家康方が争った際、忠重が槍働きを見せたという話も残されている。その後は家康側へ接近し、三河一向一揆の時期にも徳川方に加わったとされるなど、比較的早い段階から戦場経験を積んでいった。忠重は天下に名を轟かせる猛将として語られることこそ少ないものの、若い頃から東海地方の争乱に深く関わり、実戦と外交の双方を経験してきた武将だったのである。

姉川の戦いと徳川方での働き――織田・徳川連合の時代を生きる

元亀元年(1570)の姉川の戦いは、織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の勢力が衝突した重要な合戦として知られている。水野家に伝わる記録では、この戦いに兄・信元の勢力とともに忠重も関わり、働きを見せたとされている。姉川の戦いは、水野忠重の立場を理解するうえでも興味深い。水野氏はもともと独立性の強い地方領主でありながら、地理的には尾張の織田氏と三河の徳川氏を結ぶ位置にいた。忠重自身も家康との血縁を持ちながら、兄信元を通して織田政権とも関係していた。そのため、織田・徳川同盟が機能していた時代には、忠重の立場は両勢力を結ぶ接点として非常に都合の良いものだった。戦場では徳川勢とともに働き、一方で水野家全体としては信長の勢力圏に組み込まれていく。この複雑な位置取りこそ、忠重が後に織田・豊臣・徳川という三つの巨大勢力を渡り歩くことのできた背景の一つであった。

兄・信元の失脚から復活へ――刈谷城主となったこと自体が大きな実績

天正3年(1575)、水野忠重の兄であり水野氏当主だった水野信元が、武田氏への内通を疑われて織田信長の命により処断されると、水野家は重大な危機を迎えた。刈谷城を含む旧領は織田家臣・佐久間信盛の支配下に入り、水野氏は長年築き上げてきた三河西部の政治基盤を失ったのである。しかし忠重はこの危機を生き延びた。そして天正8年(1580)、佐久間信盛が信長の不興を買って追放されると、信長は刈谷を忠重に与えた。忠重は9月に刈谷城へ入り、水野氏の旧領を再び手にすることになった。この出来事は合戦における首級や一番槍のような華々しい武功ではないが、戦国大名として考えれば極めて大きな成功だった。一族の当主が処刑され、領地まで没収された家がわずか数年で旧領へ復帰することは容易ではない。忠重が織田政権から一定の能力と忠誠を認められていたからこそ、水野家再興の役目を任されたと見ることができる。忠重最大の実績の一つは、敵を何人討ち取ったかではなく、一度崩壊しかけた水野氏を再び刈谷の領主へ戻したことにあった。

高天神城攻め――徳川家康とともに武田勢力を圧迫

忠重の具体的な軍事活動として重要なのが、遠江国の高天神城をめぐる戦いである。高天神城は武田氏と徳川氏が長年争奪を続けた東海道屈指の重要拠点で、武田勝頼にとって遠江支配を維持するための前線基地となっていた。徳川家康は高天神城への圧力を強め、周辺の砦や街道を押さえながら城を孤立させていった。この作戦に忠重も参加し、嫡男の水野勝成も父とともに従軍した。天正9年(1581)には包囲が最終段階へ入り、武田方の城兵は救援を得られないまま追い詰められていく。織田信長から忠重へ直接指示が送られたことも知られており、忠重が単なる一部隊の武将ではなく、信長と家康の共同作戦の中で一定の役割を担う立場にあったことがうかがえる。高天神城は最終的に徳川軍の攻撃によって陥落し、勝頼の威信は大きく低下した。この戦いでは息子勝成も首級を挙げたと伝わり、忠重にとっては自ら戦場で働くと同時に次世代の武将を育てる場ともなった。

本能寺の変後の甲斐出陣――天下の空白を突いた争いにも参加

天正10年(1582)3月、織田信長による甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、甲斐・信濃・上野を中心とする旧武田領は織田政権の支配下へ組み込まれた。しかし同年6月に本能寺の変が発生し、信長が明智光秀に討たれると、旧武田領の政治秩序は一気に崩れる。徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが領有権を争う天正壬午の乱へと発展していった。この状況下で忠重も甲斐方面へ出陣したと伝えられている。嫡男勝成も家康配下として北条勢と戦い、黒駒周辺の戦闘で武功を挙げた。忠重がこの争いに参加した意味は大きい。本能寺の変によって信長という絶対的な権力者が突然消えたにもかかわらず、忠重は混乱の中で軍事行動を停止するのではなく、家康の東国戦略へ加わったからである。旧武田領をめぐる争いは最終的に徳川氏と北条氏の講和へ向かい、家康は甲斐・信濃方面へ勢力を伸ばした。忠重もその過程に関わることで、信長死後の新しい勢力図の中でも自らの立場を維持した。

小牧・長久手の戦い――水野忠重の軍歴を代表する重要な戦場

忠重の軍事活動の中でも、特に存在感が際立つのが天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いである。本能寺の変後に台頭した羽柴秀吉と、織田信長の次男・織田信雄および徳川家康の連合勢力が対立したこの戦いは、後の天下の行方を左右する大規模な軍事衝突となった。秀吉軍と家康軍が尾張北部で対峙する中、秀吉方では池田恒興や森長可らを中心とする別働隊を徳川氏の本拠・岡崎方面へ向かわせる作戦が実行された。家康はこの動きを察知すると、忠重に命じて先に小幡城へ向かわせている。つまり忠重は、敵の別働隊を追撃するための重要な前進部隊を任されたのである。家康自身もその後小幡城へ入り、4月9日の長久手方面での決戦へと進んだ。忠重の部隊は徳川方の軍勢として秀吉方に圧力を加え、戦いは池田恒興・森長可らが戦死する徳川方の大きな勝利となった。忠重自身が大将首を取ったわけではないが、敵軍の動きを追い、家康本隊が決戦へ入るための態勢を整えた点は見逃せない。

勝成とともに戦った父子の軍事行動――猛将を育てた忠重

小牧・長久手の戦いでは、忠重の嫡男・勝成も父とともに戦っている。勝成は長久手の戦場で目立った武功を挙げたと伝えられ、その武勇を強く印象付けた。忠重と勝成の父子関係は後に激しく悪化するものの、この頃までは二人が同じ軍勢の中で行動していた。高天神城攻めから小牧・長久手へ至る時期は、忠重が息子に戦国武将としての実戦経験を積ませた時代でもあったと考えられる。勝成は後世、「鬼日向」と呼ばれるほど激しい戦いぶりで知られる武将となるが、その出発点には父忠重とともに参加した徳川方の戦役があった。もっとも、勝成の激しい気性はやがて水野家内部で問題を起こし、忠重の家臣を斬殺したことをきっかけに父から勘当される。忠重は勇猛な息子の才能を認めながらも、家臣団の秩序を守る領主としては勝成を処罰せざるを得なかった。この出来事からは、忠重が単純な武辺者ではなく、軍団を統率する当主として家中の規律を重視していたこともうかがえる。

秀吉の天下統一後――戦う武将から豊臣政権の大名へ

小牧・長久手の戦いでは家康側に立った忠重だったが、その後、秀吉の天下統一が進展すると新しい政治秩序へ組み込まれていった。天正15年(1587)には従五位下・和泉守に叙任され、豊臣姓を与えられたとされる。さらに天正18年(1590)の小田原征伐によって後北条氏が滅亡し、秀吉が全国支配をほぼ完成させると、忠重は刈谷から伊勢国神戸へ移された。この時期になると忠重の実績は戦場で敵を破ることだけではなく、豊臣政権が進める全国的な大名再配置へ適応し、領主として地位を保つことへ移っていった。戦国時代を最後まで生き残った武将の多くは、単に強いだけではなく、天下人の交代に合わせて自らの立場を変える能力を持っていた。忠重もまたその典型の一人だったといえる。

刈谷復帰と加増――軍功以上に重要だった「家を残す」という成果

文禄3年(1594)、忠重は伊勢神戸から再び三河刈谷へ戻り、水野氏の伝統的な本拠を取り戻した。翌年には三河国内で加増されたとされている。戦国武将の評価では、どうしても有名合戦での華々しい活躍が注目される。しかし領主にとって最も重要なのは、自らの家を滅亡させず、領地を次の世代へ渡すことであった。その意味で忠重は、兄信元の処断によって一度は失われた刈谷を回復し、信長死後の混乱を乗り切り、秀吉政権でも大名として生き残り、最終的には再び刈谷へ帰還した。これは一つの大戦で勝利すること以上に難しい政治的成果であったともいえる。さらに長く勘当していた嫡男勝成についても、慶長3年(1598)頃には家康の仲介を受けて和解した。これによって水野家の後継体制が再び整えられ、忠重が築き直した領地と家臣団を勝成へ渡す道が開かれた。

関ヶ原直前で途絶えた軍歴――もし生きていれば東軍の有力武将となった可能性

慶長5年(1600)、石田三成らと徳川家康の対立が決定的になると、日本全国の大名は東西いずれの陣営につくかを迫られた。忠重は家康の母方の叔父であり、長年にわたって徳川軍とともに戦った経歴を持っていたことから、その立場は徳川方に近いものだった。しかし関ヶ原本戦を迎える直前の7月19日、忠重は加賀井重望によって殺害され、約60年の生涯を終えた。そのため忠重本人が関ヶ原で戦うことはなかった。後を継いだ勝成は徳川方として行動し、水野家は江戸幕府の譜代大名として生き残っていく。もし忠重がこの事件で命を落とさず関ヶ原まで生存していれば、家康の親族であり、長久手などでともに戦った経験を持つ武将として、東軍の重要な一翼を担った可能性は高い。忠重の軍歴は関ヶ原という最大の決戦を目前にして突然終わったが、それまでに積み重ねた高天神城攻め、甲斐への出陣、小牧・長久手での働き、そして刈谷領の回復は、水野家を戦国の地方領主から江戸時代の譜代大名へつなげる大きな土台となった。忠重の本当の功績とは、一度の華麗な戦勝ではなく、激しい戦争と政権交代の連続する時代に軍事力・政治判断・家中統率を使い分けながら水野家そのものを生き残らせた点にあったのである。

■ 人間関係・交友関係

徳川家康との関係――「母方の叔父」であると同時に戦場をともにした武将

水野忠重の人間関係を語るうえで、最も重要な人物の一人が徳川家康である。忠重の姉である於大の方が家康の母であったため、忠重は家康にとって母方の叔父にあたった。しかし両者の関係は、単純に「叔父と甥」という血縁だけで説明できるものではない。戦国時代において、血縁関係と政治的な所属は必ずしも一致しなかったからである。於大の方が松平広忠へ嫁いで家康を産んだ後、水野家が今川氏から離れて織田氏との関係を強めたことにより、於大は松平家から離縁されている。つまり幼い家康にとって、水野家は母方の実家でありながら、一時は松平家と異なる外交方針を取る勢力でもあった。それでも忠重と家康の関係は、やがて軍事面でも強く結び付いていった。忠重は徳川方の戦いに参加し、高天神城攻めや甲斐方面での軍事行動、小牧・長久手の戦いなど、家康にとって重要な局面で行動をともにしている。特に小牧・長久手では、家康が敵別働隊の動きを察知した際、忠重を先に小幡方面へ向かわせたとされる。これは忠重が単なる親族というだけではなく、軍事行動を任せられる武将として信頼されていたことを示す。さらに晩年には、長年勘当されていた嫡男・水野勝成と忠重の和解にも家康が関与したと伝えられており、水野家の内部問題にまで家康が影響を及ぼしていた。忠重にとって家康は血縁者であると同時に、戦場をともにした有力者であり、最終的には水野家を次代へつなぐうえで欠かせない政治的後ろ盾でもあったのである。

於大の方との姉弟関係――徳川家との血縁を生み出した重要人物

忠重の姉・於大の方は、水野一族の歴史だけでなく徳川家の成立を考えるうえでも極めて重要な女性である。於大の方は松平広忠の正室となり、のちの徳川家康を産んだことで知られている。ただし、水野氏と松平氏の外交関係が悪化すると離縁され、家康とは長い間別れて暮らすことになった。忠重から見れば、於大の方は実姉であると同時に、徳川家康との血縁を水野家にもたらした存在だった。戦国時代の婚姻は家同士の外交と密接に結び付いており、女性の婚姻関係がその後の一族の運命を大きく左右することも珍しくない。水野家の場合、於大の方が家康の母だったことは、江戸時代になってから特に大きな意味を持つようになる。徳川幕府にとって水野氏は将軍家と血縁を持つ家柄の一つであり、忠重の子孫が譜代大名として発展していく際にも、その由緒は無視できない要素となった。ただし忠重自身の人生では、この血縁に頼るだけでは十分ではなかった。兄信元が織田信長によって処断されたように、家康の叔父の家だからといって安全が保証されていたわけではない。忠重は於大の弟という立場を持ちながらも、自ら軍功を積み、織田・豊臣・徳川それぞれとの関係を築き直す必要があったのである。

兄・水野信元との関係――水野家の繁栄と危機を象徴する兄弟

忠重の長兄にあたる水野信元は、父・水野忠政の後を継いで水野家の当主となった人物である。信元は尾張と三河の境界地域を支配する有力領主として織田信長と結び、徳川家康とも関係を保ちながら勢力を維持した。しかし天正3年(1575)、武田氏への内通を疑われ、信長の命によって処断されることになる。この事件は忠重の人生にも大きな衝撃を与えた。兄の死によって水野氏は刈谷の支配権を失い、一族そのものが政治的危機へ追い込まれたからである。忠重が後年、刈谷城主として水野家の旧領へ復帰したことを考えると、忠重の生涯は信元が失ったものを再び取り戻す過程だったともいえる。兄弟がどの程度親密だったのかを詳細に示す記録は多くないものの、信元の失脚後も忠重が水野氏の家名を守り、やがて刈谷へ戻ったという事実は、忠重が水野家全体の継承を強く意識していたことを示している。信元は織田政権下で一族を大きく発展させた人物であり、忠重はその崩壊後に家を再建した人物だった。二人の兄弟は、それぞれ異なる形で戦国水野氏の盛衰を象徴しているのである。

父・水野忠政から受け継いだもの――境界領主としての政治感覚

父の水野忠政は、緒川を本拠としていた水野氏の勢力を三河方面へ伸ばし、刈谷城を築いた人物として知られる。忠重が後に刈谷を本拠とすることになった背景には、父忠政が築いた領国基盤が存在した。忠政は周囲を強大な勢力に囲まれながら、水野氏が生き残るために婚姻や軍事同盟を巧みに利用した戦国領主だった。娘の於大を松平広忠へ嫁がせたことも、その外交政策の一つであった。忠重が織田、豊臣、徳川という異なる権力者の時代を生き抜くことができたのは、こうした水野家特有の柔軟な政治感覚を父の世代から受け継いでいたからとも考えられる。尾張と三河の境界地域では、一つの勢力への絶対的な忠誠だけでは家を守れない場合が多かった。勢力図が変われば外交関係を調整し、ときには領地を移り、新しい主君のもとで家を存続させる必要があった。忠重の人間関係が複雑に見えるのは、個人的な優柔不断さではなく、境界領主として生き残るための現実的な行動だったのである。

嫡男・水野勝成との父子関係――武勇への期待と激しい対立

忠重の人間関係の中でも、最も劇的なのが嫡男・水野勝成との関係である。勝成は後世、「鬼日向」と称されるほど勇猛な武将として知られるが、若い頃から非常に激しい気性を持っていた。高天神城攻めや小牧・長久手の戦いなどでは忠重と行動をともにし、若くして目立った武功を挙げている。忠重から見れば、勝成は水野家の将来を担う有望な後継者だったはずである。しかし勝成は戦場での勇敢さとは裏腹に、家臣団との間で問題を起こすことも多かった。やがて忠重の家臣を殺害したことをきっかけとして父子関係が決定的に悪化し、忠重は勝成を勘当したとされる。ここで注目すべきなのは、忠重が嫡男であっても家中の秩序を乱した者を処罰した点である。戦国大名にとって家臣団の統率は領国支配の根幹であり、跡継ぎだからといって無条件に許せば当主としての権威が損なわれかねない。忠重は父親としての情よりも領主としての秩序を優先したと見ることができる。一方、勝成は勘当後に諸国を放浪し、さまざまな大名のもとで戦った。普通ならばそのまま家督から外されても不思議ではなかったが、最終的には家康の仲介もあって父子は和解した。忠重の死後、勝成は家督を継いで徳川方として活躍し、やがて備後福山十万石の大名へ成長する。激しく対立しながらも最終的には家を継がせた忠重と勝成の関係は、戦国武将の親子関係が家族感情だけではなく、家名・領地・家臣団という政治的問題と密接に結び付いていたことをよく示している。

織田信長との関係――兄を処断した天下人から旧領を与えられる複雑さ

忠重と織田信長の関係も非常に複雑である。信長は水野家にとって有力な同盟者である一方、兄信元を処断した人物でもあった。本来ならば忠重にとって信長は兄の仇ともなり得る存在だった。しかし戦国社会では個人的な感情よりも家の存続を優先しなければならない。忠重は信長との関係を完全に断絶することなく、むしろ織田政権の中で生き残る道を選んだ。その結果、佐久間信盛が追放された後、天正8年(1580)に刈谷の旧領を信長から与えられている。この事実は、忠重が信元の弟だからという理由だけで排除されていたわけではなく、信長から独立した評価を受けていたことを示している。さらに高天神城攻めなどでは信長から指示を受けて行動したとされ、織田・徳川共同戦線の一員として役割を果たした。兄を処断した主君に仕え、その主君から一族の旧領を回復してもらうという関係は、現代的な感覚では理解しにくい。しかし戦国武将にとって第一に守るべきものは個人的感情ではなく、家名と所領だった。忠重と信長の関係には、戦国社会の非情な現実が端的に表れている。

豊臣秀吉との関係――敵対陣営から豊臣政権の大名へ

忠重は小牧・長久手の戦いでは徳川家康側に属し、羽柴秀吉の軍勢と敵対した。しかし戦いの後、秀吉が天下統一を進めると忠重は豊臣政権へ組み込まれていく。天正15年(1587)には和泉守に任じられ、豊臣姓を受けたとされ、のちには伊勢神戸への転封も経験した。この流れは、忠重と秀吉の関係が「かつて敵だったから最後まで敵」という単純なものではなかったことを示している。戦国後期には、昨日まで戦っていた相手が翌年には主君となることも珍しくなかった。忠重も秀吉の天下統一という現実を受け入れ、豊臣政権の大名として生きる道を選んだ。秀吉側から見ても、忠重は家康の叔父という重要な血縁を持ち、三河・尾張周辺の事情に詳しい武将だった。忠重を政権内へ組み込むことは、東海地方の安定という意味でも価値があったと考えられる。忠重と秀吉の関係は深い個人的友情というより、互いの政治的必要性によって成立した実務的な主従関係だったと見るのが自然である。

堀尾吉晴との関係――最期の日に同席した豊臣系武将

忠重の最期を語る際に欠かせないのが堀尾吉晴である。吉晴は豊臣秀吉に仕えて出世し、温厚な人柄から「仏の茂助」と呼ばれたとも伝わる武将である。慶長5年(1600)7月19日、忠重は吉晴を接待しており、その席に加賀井重望も同席していたとされる。なぜ忠重と吉晴がこの時期に同席していたのかについては、関ヶ原直前の政治情勢とあわせてさまざまに考えられている。吉晴は豊臣政権で出世した人物でありながら、関ヶ原では徳川方へ接近していた。忠重も家康との血縁と長年の関係から東軍側に位置付けられる人物だった。そのため、両者の会合は単なる私的な宴席というより、緊迫する政治情勢の中で情報交換や意思確認を行う意味を持っていた可能性もある。ただし、確実な史料が示していない部分まで政治的密談と断定することはできない。少なくとも忠重と吉晴が同席する程度の交流を持っていたこと、そしてその場が忠重の人生最後の場となったことは重要である。

加賀井重望との関係――忠重の生涯を突然終わらせた人物

加賀井重望は、水野忠重の名前とともに最期の事件で語られることが多い武将である。重望は美濃国加賀井を本拠とした武士で、豊臣政権末期の複雑な政治状況の中にいた人物だった。慶長5年7月19日、忠重、堀尾吉晴、重望らが同席していた場で争いが起こり、忠重は重望に斬られて死亡した。さらに重望は吉晴にも傷を負わせた後、最終的に討ち取られたとされる。事件の原因については、酒席での口論、日頃からの対立、政治的な思惑など複数の説明が伝えられているが、後世の脚色も含まれるため慎重に見る必要がある。重要なのは、この事件が関ヶ原の戦い直前という極めて緊張した時期に発生したことである。そのため後世には、西軍側の何らかの意図があったのではないかという見方も生まれた。しかし確実な証拠が不足している以上、忠重が計画的に暗殺されたと断定するのは難しい。結果だけを見れば、加賀井重望は約60年にわたって戦国の激動を生き抜いた忠重の命を、天下分け目の決戦直前に突然奪った人物となった。

水野一族とのつながり――個人より「家」を重視した忠重の人間関係

忠重の周囲には、兄信元、姉於大の方、嫡男勝成をはじめ、多くの水野一族が存在していた。水野氏は一枚岩の大大名ではなく、各地に分かれた一族がそれぞれ独自の領地と家臣団を持ちながら、血縁によって緩やかに結び付いていた。そのため忠重にとって人間関係とは、単なる友人や親族との交流ではなく、一族全体の存続に直結する政治的な問題だった。誰と婚姻を結ぶか、どの大名に従うか、どの親族を後継者として位置付けるかによって、水野家の未来が左右されたからである。忠重が信長に仕え、秀吉政権へ入り、最終的には家康との関係を強めたことも、一見すると所属を次々と変えたように見える。しかし当時の大名社会では、天下の政治構造そのものが変化していたため、家を存続させるには新しい支配者との関係を築き続ける必要があった。忠重はこの現実を理解し、人間関係を家の存続に結び付けていった武将だった。

水野忠重の人間関係から見える人物像――情よりも家と現実を優先した領主

水野忠重の交友・人間関係を総合すると、非常に現実的な判断を重ねた戦国領主の姿が見えてくる。家康とは叔父と甥でありながら軍事上の協力者でもあり、信長は兄を死に追いやった人物でありながら自らの旧領を回復してくれた主君でもあった。秀吉とは小牧・長久手で敵対しながら、その後は豊臣政権の大名として仕えた。さらに嫡男勝成については、将来を期待しながらも家中の秩序を乱したため勘当し、後に家康の仲介を受けて再び受け入れている。これらの関係には、単純な「好き」「嫌い」だけでは説明できない戦国時代特有の現実が存在する。忠重にとって最優先すべきものは、水野家という組織を存続させることだった。そのためには血縁者であっても処罰し、かつて敵だった相手とも協力し、兄を処断した天下人にも仕える必要があった。忠重が約60年間にわたり生き抜き、一度失った刈谷を取り戻して息子へ渡すことができた背景には、この冷静な人間関係の構築能力があったと考えられる。彼の人生は、人間関係が個人的感情以上に政治・軍事・家の存亡と結び付いていた戦国社会を理解するうえで、非常に象徴的な例なのである。

■ 後世の歴史家の評価

水野忠重の歴史的評価――天下人ではなく「家を再興した武将」として見る人物

水野忠重は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康のように天下統一を左右した巨大な政治家ではなく、本多忠勝や井伊直政のように全国的な知名度を持つ猛将でもない。そのため一般的な戦国史では主役として長く扱われる人物ではなく、徳川家康の母方の叔父、水野勝成の父、あるいは刈谷城主として名前が登場することが多い。しかし忠重の生涯を一つの流れとして検討すると、その歴史的価値は決して小さくない。むしろ一族の当主が処断されて領地を失うという危機から水野家を立て直し、織田政権崩壊後の混乱、豊臣秀吉の天下統一、そして徳川家康の台頭という激変を乗り越えた「家の再建者」として評価することができる。戦国武将の功績は、何万石を領有したか、何人の敵将を討ち取ったかだけで決まるものではない。一族を滅亡させず、領地を確保し、後継者へ政治的基盤を引き渡すことも領主にとって重要な成果であった。その観点から見ると、忠重は戦国時代から江戸時代へ水野氏を橋渡しした重要人物だったと位置付けられる。

兄・水野信元の失脚後に家を復活させた点への高い評価

忠重を評価する際に最も重要なのが、水野信元の死後に一族を再び刈谷へ復帰させたことである。信元は水野氏の当主として大きな勢力を持っていたものの、織田信長から武田氏との内通を疑われ、天正3年(1575)に処断された。その結果、刈谷をはじめとする水野氏の領地は失われ、一族は政治的に極めて厳しい状況へ追い込まれた。戦国社会では、当主が主君から謀反を疑われて処刑されれば、その一族まで没落することは珍しくない。忠重自身も信元の弟である以上、決して安全な立場ではなかったはずである。それにもかかわらず忠重は生き残り、天正8年(1580)に佐久間信盛が失脚すると刈谷城主として旧領へ戻ることに成功した。この復帰は偶然だけで説明することは難しい。忠重自身が織田政権や徳川勢力との間に独自の信頼関係を築き、一人の武将として利用価値を認められていたからこそ可能になったと見るべきだろう。後世から見れば、忠重の最大の功績は「失われた水野家の政治基盤を復活させたこと」にある。兄が築いた家をそのまま受け継いだのではなく、一度崩れた状態から再構築した点に忠重ならではの評価が存在する。

「家康の叔父」という肩書だけで評価することの問題点

忠重を紹介する際には、徳川家康の生母・於大の方の弟であり、家康の叔父にあたるという説明がほぼ必ず付け加えられる。確かにこれは忠重を理解するうえで重要な血縁関係である。しかし、この肩書だけを強調すると、忠重が家康との親族関係によって容易に出世した人物だったかのような印象を与えかねない。実際の戦国時代では、血縁があるからといって安全や領地が保証されるわけではなかった。水野氏が織田氏と結んだ結果、家康の母である於大の方は松平家から離縁されている。また兄信元も家康との関係を持ちながら最終的には信長の命によって処断された。忠重自身も織田政権、徳川勢力、豊臣政権という異なる政治勢力の間で立場を調整しなければならなかった。そのため忠重を評価する場合、「家康の叔父だったから生き残った」と考えるよりも、家康との血縁という有利な条件を持ちながら、それだけには頼らず軍事・外交・領国経営によって自身の立場を維持した人物と考える方が実像に近い。血縁は忠重にとって重要な政治資産だったが、それを実際の家の存続へ結び付ける能力を持っていたことこそ評価される部分なのである。

軍事面での評価――突出した猛将ではないが重要局面に参加した実戦型武将

軍事的な観点では、忠重は戦国史を代表する「最強武将」として評価される人物ではない。しかし、そのことを理由に武将として平凡だったと判断するのも適切ではない。忠重は高天神城をめぐる戦い、甲斐方面への出陣、小牧・長久手の戦いなど、織田・徳川勢力にとって重要な軍事行動へ参加している。特に小牧・長久手では、羽柴秀吉方の別働隊が三河方面へ進出しようとした際、家康の命によって先行して行動する立場を任された。こうした役割は、単に血縁だけで与えられるものではなく、現地の地理や軍事事情に通じ、一定の部隊指揮能力を持つ武将だったからこそ任されたと考えられる。忠重の軍歴には本多忠勝のような豪快な一騎討ちの逸話や、井伊直政の赤備えのような象徴的軍団は目立たない。しかし戦国時代の軍事は、華々しい突撃だけでは成り立たない。部隊を動かし、城を守り、情報を伝達し、必要な地点を確保する武将がいて初めて大軍は機能する。忠重はその意味で、派手さよりも実務能力を備えた実戦型の領主として評価することができる。

織田・豊臣・徳川を渡り歩いた行動は「変節」ではなく戦国領主の現実

現代の感覚では、主君を変える人物に対して「忠誠心が薄い」という印象を抱く場合がある。忠重も織田信長の支配下で刈谷城主となり、その後は徳川家康とともに羽柴秀吉と戦いながら、最終的には豊臣政権の大名となっている。そして秀吉死後には再び家康との関係を強めた。この経歴だけを切り取れば、状況に応じて有力者へ乗り換えた人物にも見える。しかし戦国史を領主側の視点から見ると、むしろ忠重の行動は極めて合理的だった。忠重自身が勝手に天下の支配者を選んだというより、信長から秀吉、さらに家康へと全国の政治構造そのものが変化していたからである。地方領主が生き残るには、新たに成立した中央政権と関係を築き直さなければならなかった。忠重は一つの理念に固執して家を滅ぼすのではなく、その時代の政治状況を読みながら水野家の存続を最優先した。この柔軟性は、戦国武将に必要だった重要な政治能力の一つとして評価することができる。

領主としての評価――刈谷を「戦う拠点」から統治する土地へ

忠重を単なる軍人としてではなく領主として見ることも重要である。戦国末期になると、大名に求められる能力は戦場での指揮だけではなくなっていった。領内の土地を整備し、農業生産を増加させ、村落を安定させ、年貢収入を確保する能力も重要になったからである。刈谷の地域史では、忠重が今岡村の開発などに関わり、地域の発展に力を尽くした人物として扱われている。これは忠重の評価を考えるうえで非常に重要な点である。父忠政や兄信元の時代、水野氏の本拠は尾張・三河の境界で周囲の勢力と争う軍事拠点としての性格が強かった。一方、忠重が活動した16世紀末になると、豊臣秀吉による全国統一が進み、領主は戦争だけでなく領国を安定的に経営することを求められるようになった。忠重が土地の開発に関与したことは、彼自身が「戦国の武将」から「近世大名」へ移行する過渡期に位置していたことを象徴している。ここに、忠重を戦国と江戸の橋渡し役として評価できる理由がある。

嫡男・水野勝成を通じて見える忠重の家中統率力

後世における忠重の評価には、嫡男・水野勝成との関係も大きく影響する。勝成は戦国武将の中でも極めて個性的な生涯を送った人物で、若い頃には勇猛さと同時に激しい気性によって問題を繰り返した。忠重とともに高天神城攻めや小牧・長久手の戦いへ参加したものの、家臣との争いを原因として父から勘当され、その後は諸国を放浪してさまざまな大名のもとを渡り歩いた。ここで忠重が勝成を処罰したことについては、単純に「息子と仲の悪い父」と見るより、当主として家臣団の秩序を守った判断として評価することができる。戦国大名家では、嫡男の横暴を放置すれば家臣が離反し、家中分裂につながる危険がある。たとえ跡継ぎであっても、当主が処分しなければならない場合があった。その後、勝成と和解して再び後継者として受け入れたことにも、忠重の現実的判断が見える。結果として勝成は忠重の死後に水野家を継ぎ、関ヶ原後には刈谷藩主となり、さらに大坂の陣で活躍して大和郡山を経て備後福山十万石の大名へ成長した。勝成の成功は本人の能力によるところが大きいが、その出発点となる水野家の領地と家臣団を残したのは忠重だった。

江戸時代の水野氏繁栄を準備した人物としての評価

忠重の歴史的役割は、本人の生涯だけではなく子孫の展開まで見ることでさらに明確になる。水野氏は江戸時代になると徳川将軍家と血縁を持つ譜代系の家として多数の大名・旗本を輩出した。忠重の嫡男勝成は福山藩十万石の初代藩主となり、その弟の忠清も大名として活動した。さらに後世には幕政の重要な役職を担う水野氏の諸家が登場する。もちろん江戸時代の水野一族すべての繁栄を忠重一人の功績に帰すことはできない。それでも、信元の死によって危機に陥った水野家の一系統を再び刈谷へ定着させ、徳川家との関係を保ち、後継者へ領地を渡したことは、その後の発展にとって重要だった。もし忠重の段階で刈谷水野氏が没落していれば、勝成が近世大名として飛躍するための条件も大きく変わっていた可能性がある。その意味で忠重は、自分自身が巨大な領国を形成した人物というより、「次の世代が飛躍するための基盤を築いた武将」として評価するのが適切である。

華やかな英雄像から外れるため過小評価されやすい存在

忠重が一般的な戦国武将人気の中で目立ちにくい理由は、その功績の性質にもある。戦国時代の人気人物には、天下を狙った大名、劇的な最期を迎えた武将、圧倒的な戦闘能力を誇った猛将など、分かりやすい物語を持つ人物が多い。それに対して忠重の最大の成果は、一度没落しかけた家を立て直し、激しく変化する政治情勢へ適応しながら領地を守ったことにある。これは劇的な物語にはなりにくいが、実際の戦国社会では極めて重要な能力だった。無数の国人領主や小大名が戦国時代の途中で歴史から姿を消したことを考えれば、信長・秀吉・家康という三人の天下人が登場する時代を通して家名を維持したこと自体が一つの実績である。忠重のような中規模領主の動きを見ることで、戦国史は天下人だけが作ったものではなく、各地域で家や領地を守ろうとした多数の武将によって形作られていたことが理解できる。

最期の刃傷事件が生んだ「関ヶ原で見たかった武将」という余韻

忠重の評価を難しくしている要素の一つが、慶長5年(1600)7月に起きた突然の死である。忠重は関ヶ原の戦いを目前にして加賀井重望との事件に巻き込まれ、命を落とした。そのため徳川家康と石田三成が激突する天下分け目の決戦で、忠重本人がどのような役割を果たしたのかを見ることはできない。家康の叔父であり、過去には家康とともに数々の軍事行動へ参加し、三河刈谷を領有していた忠重が生存していれば、東軍側で何らかの重要な役目を担った可能性は十分考えられる。ただし、それが具体的にどのような役割だったかは史実ではなく想像の領域になる。それでも、関ヶ原直前に約60年の生涯を突然閉じたことによって、忠重には「もう少し生きていれば徳川政権成立の場面でどのような働きをしたのか」という歴史的な余韻が残されている。実際には息子勝成が家督を継ぎ、父に代わる形で徳川時代へ進んでいった。

後世から見た総合評価――戦国の危機を乗り越え、水野家を近世へ渡した「再興の当主」

水野忠重を総合的に評価するなら、「天下を動かした英雄」という表現よりも「水野家を再興し、戦国から江戸へ送り届けた当主」という位置付けが最もふさわしい。兄信元の死によって一族の政治基盤が崩壊すると、忠重はその危機を生き延びて刈谷へ復帰した。その後は信長亡き後の混乱にも対応し、家康とともに軍事行動を行いながら、秀吉が天下人となれば豊臣政権の大名として新たな秩序へ参加した。そして再び刈谷へ帰還し、領地の経営にも取り組み、激しく対立した息子勝成とも最終的に和解して後継体制を整えた。こうした経歴には、派手な英雄伝説とは異なる戦国武将の能力が凝縮されている。それは状況を読み、必要なら立場を変え、家臣団を統率し、土地を治め、何より一族を次代へ残す能力である。江戸時代に水野氏から多くの大名や幕臣が出たことを考えれば、その基盤を戦国末期に守った忠重の役割は決して軽視できない。徳川家康の叔父という血縁は忠重を説明する重要な要素だが、それだけではこの人物の価値を十分に表現できない。忠重自身が約60年に及ぶ激動を生き、一度失われた水野家の本拠を取り戻し、次の世代へ渡したからこそ、水野氏は近世大名として新しい時代を迎えることができたのである。水野忠重は、戦国史の表舞台では目立ちにくい一方、地域史・大名家史という視点から見るほど存在感が大きくなる人物であり、「生き残ること」「家を残すこと」もまた戦国武将にとって大きな勝利だったことを示す存在と評価できる。

■ 登場する作品(書籍・テレビ・ゲームなど)

水野忠重が登場する作品――家康・水野勝成を描く物語の重要な脇役

水野忠重は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のように数多くの映画やテレビドラマで主人公として描かれてきた人物ではない。しかし、徳川家康の母方の叔父であり、水野勝成の父、さらに三河刈谷を治めた水野氏の当主という位置にあったため、戦国時代末期から関ヶ原前夜を扱う歴史作品の中では、しばしば重要な脇役として姿を見せる。特に忠重が登場しやすいのは、徳川家康の若年期を描く物語、水野氏と松平氏の関係を扱う作品、小牧・長久手の戦いを題材にした作品、そして波乱に満ちた生涯を送った嫡男・水野勝成を主人公とする作品である。忠重自身の生涯には、兄水野信元の失脚、水野家の再興、織田信長への従属、徳川家康との共闘、豊臣政権への参加、勝成との父子対立、関ヶ原直前の突然の死など、歴史作品に向いた題材が非常に多い。それにもかかわらず単独主人公として扱われる機会が比較的少ないのは、同時代に信長・秀吉・家康というあまりにも巨大な人物が存在し、さらに子の勝成が極めて劇的な人生を送ったことも関係している。その一方で近年は、水野家そのものを地域史や古文書から捉え直す動きもあり、忠重を単なる「家康の叔父」ではなく、水野家を再興した当主として扱う書籍も登場している。作品世界における忠重は、派手な英雄ではなく、巨大な歴史の流れを裏側から支えた現実的な戦国領主として描きやすい存在なのである。

NHK大河ドラマ『春日局』――関ヶ原前後の徳川勢力を構成する武将として登場

水野忠重が実名で登場した代表的なテレビ作品の一つが、1989年に放送されたNHK大河ドラマ『春日局』である。同作は、三代将軍徳川家光の乳母として知られる春日局ことおふくの生涯を中心に、豊臣政権末期から江戸幕府初期へ移り変わる時代を描いた大河ドラマである。忠重は物語全体を通じた主要人物ではないものの、徳川家康を中心として形成されていく武将層の一人として登場する。『春日局』が扱う時代は、忠重の晩年と重なる部分が大きい。豊臣秀吉が死去し、徳川家康と石田三成の対立が深まり、やがて関ヶ原へ向かう時期は、忠重自身にとっても人生最後の局面だった。そのため作品の中で忠重が配置されることによって、徳川家康の周囲に単なる直属家臣だけではなく、血縁関係や長年の軍事的つながりを持つ武将が存在していたことが表現される。忠重の登場場面が多くなくても、彼の存在は徳川勢力が一枚岩ではなく、さまざまな家柄や経歴を持った武将たちによって形成されていたことを示す役割を果たしている。

NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』――徳川家康を取り巻く三河武将の一人

2017年放送のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』にも水野忠重は登場している。同作は遠江国井伊谷を舞台として井伊直虎の生涯を描きながら、今川氏の衰退、武田氏との争い、徳川家康の勢力拡大などを描いた作品である。水野氏の本拠である刈谷は井伊谷とは異なる地域に位置するものの、忠重は家康と血縁関係を持ち、さらに三河・遠江方面の徳川勢力と密接な関係を持った人物であるため、この時代を描く作品の中に自然に登場することになる。忠重を通じて見ると、徳川家康の勢力拡大が本多忠勝、酒井忠次、榊原康政といった著名な家臣だけによって進められたわけではなく、水野氏のような周辺領主との複雑な協力関係によって成立していたことが分かる。ドラマにおいて忠重が大きな物語を背負う人物ではなかったとしても、こうした実在武将が配置されることによって、戦国東海地方の勢力関係に厚みが生まれている。

『信長の野望』シリーズ――数値化された水野忠重から見るゲーム上の人物評価

歴史シミュレーションゲームでは、コーエーテクモゲームスの『信長の野望』シリーズに水野忠重が武将として登場する作品がある。こうした歴史シミュレーションゲームの面白さは、実在人物の能力が統率、武勇、知略、政務などの数値へ置き換えられている点にある。忠重は圧倒的な武勇だけで戦場を制する猛将というより、軍事と領国経営の双方に対応する中堅武将として表現しやすい人物である。この方向性は史実上の忠重にも比較的よく合っている。忠重は本多忠勝のような超人的武勇伝を大量に残した人物ではなく、軍事行動へ参加しながら領主として水野家を再興し、政権交代へ適応していった人物だからである。ゲームでは数値という非常に簡略化された形ではあるものの、「突出した英雄ではないが、家臣団の中にいると役に立つ武将」という忠重の歴史的位置を体感できる。

歴史ゲームで味わえる水野家再興という史実とは異なる楽しみ

『信長の野望』のようなゲームでは、史実では天下を取ることがなかった水野氏をプレイヤーの手で巨大勢力へ成長させる楽しみがある。水野忠政、水野信元、水野忠重、水野勝成など複数世代の人物が登場する作品では、現実の歴史とは異なる「水野家による天下統一」を目指すことも可能になる。史実の水野氏は尾張・三河境界に勢力を持ちながら、今川・織田・徳川という大勢力の間で生存を図った地方領主だった。しかしゲームでは、忠重を中心として周辺国を攻略し、織田氏や徳川氏から独立して巨大大名へ成長する展開も作り出せる。こうしたプレイは単なる架空物語ではなく、史実の忠重が持っていた領主としての立場を別の角度から楽しむ方法でもある。「もし水野氏が信長や家康に従属せず独立大名として成長していたら」という歴史IFを、自分自身の操作によって実現できる点が歴史ゲームならではの魅力となっている。

『太閤立志伝V』――水野忠重自身を一人の戦国人物として扱える作品

『太閤立志伝V』にも水野忠重は登場人物として収録されている。同シリーズは大名家そのものを操作する『信長の野望』とは異なり、一人の人物として戦国社会を生きることに重点を置いた作品である。そのため忠重のような、天下人ほど有名ではない実在武将にも独自の存在価値が生まれる。史実では織田・徳川・豊臣という巨大勢力の影響下に置かれた忠重だが、ゲームでは本人の視点から出世や戦争、人間関係を進めることができる。兄信元の存在、甥家康との関係、嫡男勝成の存在などを考えながらプレイすると、水野家が置かれていた複雑な立場をより身近に感じられる。さらに史実とは異なる主君へ仕えたり、大名として独立したりすることもでき、忠重の人生を素材に独自の戦国物語を作ることができる作品となっている。

水野忠重を中心に扱う地域史・研究書――「水野家復興」の視点

水野忠重を詳しく知るためには、全国的な戦国人物事典だけでなく、刈谷や三河、水野氏を扱った地域史や研究書が重要になる。忠重は一般的な人物事典では、家康の叔父、刈谷城主、水野勝成の父といった短い説明で終わってしまう場合も多い。しかし水野家の復興そのものを主題に据えた研究では、兄信元の失脚後に忠重がどのように政治的立場を回復し、刈谷へ戻り、徳川家との関係を再構築したのかが中心的な問題となる。特に水野氏側から戦国東海地方を眺め直すことで、忠重が単なる有名人物の親族ではなく、一族の危機を克服した当主だったことが見えてくる。忠重単独を扱う一般向け作品が少ないだけに、地域史料や郷土研究は人物像を深めるうえで価値が高い。

水野勝成を描いた歴史小説――父として重要な役割を占める忠重

水野忠重そのものではなく、嫡男・水野勝成を中心とした歴史小説でも忠重の存在は重要になる。勝成は、若い頃から武勇に優れる一方、激しい気性によって父忠重と対立し、ついには水野家を離れて諸国を放浪することになった人物である。したがって勝成の波乱の人生を描こうとすれば、父忠重との確執を避けて通ることはできない。忠重は勝成にとって単なる父親ではなく、水野家という組織の当主であり、家臣団の秩序を守る責任を負う人物でもあった。勝成を勘当する場面は、自由奔放な息子と家を守ろうとする父という対照を作り出し、物語として強い緊張感を生み出す。後に勝成は家康の仲介などを経て父と和解し、水野家へ戻る。その後の福山藩主としての飛躍を考えると、忠重は勝成人生の前半を決定付けた存在だったといえる。

徳川家康を主人公とする作品で扱われる可能性――水野家は家康の母方一族

水野忠重は、徳川家康を中心とした書籍や歴史解説でもしばしば名前が登場する。これは水野氏が家康の生母・於大の方の実家だからである。家康の幼少期を詳しく描く場合、水野忠政、於大の方、水野信元などの人物が必然的に登場し、その延長線上に忠重も位置付けられる。ただし映像作品では登場人物数の制約があるため、忠重の役割が信元など別の水野一族に集約されたり、忠重自身が登場しない場合もある。このことが、忠重の歴史的重要度に対して映像作品での知名度が比較的低い理由の一つである。逆に小説や歴史書のように人物関係を細かく説明できる媒体では、「於大の弟」「家康の叔父」「信元の弟」「勝成の父」という四方向の人間関係を持った忠重は非常に興味深い人物となる。信長・秀吉・家康という天下人をつなぐ時代を描くうえでも、忠重の人生は格好の補助線となるのである。

映像作品で主人公になりにくい理由――水野勝成の強烈な人物像との対照

忠重が戦国武将として一定の実績を持ちながら、単独主人公のドラマや映画が少ない理由には、嫡男勝成の存在も関係している。勝成は家臣を斬って父から勘当され、諸国を放浪し、さまざまな大名のもとで戦い、関ヶ原、大坂の陣を経て十万石の大名になるという極めて劇的な人生を歩んだ。このため創作作品ではどうしても勝成の方が主人公として扱いやすい。それに対して忠重の魅力は、状況を見ながら家を守り、失った領地を回復し、政権の変化へ対応するという比較的地味な部分にある。しかし歴史を深く理解するという意味では、むしろ忠重の方が戦国領主の日常的な現実を象徴しているともいえる。すべての武将が天下を目指したわけではなく、多くの武将は巨大勢力の間で自家を生き残らせることに力を注いでいた。忠重はその典型として、歴史ドラマで掘り下げれば非常に魅力的な主人公になり得る人物なのである。

今後の作品化に期待できる人物――水野家から見た戦国史という新しい題材

水野忠重を主人公とする作品を考えた場合、その人生には十分な物語性がある。若き日に兄信元との関係に悩み、家康方へ接近し、兄が信長によって処断されると水野家が没落する。その後、忠重が刈谷を取り戻して家を再興し、高天神城攻めや小牧・長久手の戦いを経験する。一方では猛将として成長する嫡男勝成と衝突し、ついには勘当する。それでも晩年には父子が和解し、忠重は徳川時代目前まで水野家を守り抜く。しかし関ヶ原直前、加賀井重望によって突然命を奪われ、後を勝成が継ぐという流れは、歴史ドラマとして非常に完成度の高い構成を持っている。信長・秀吉・家康という三英傑を主人公側から見るのではなく、その巨大な勢力に翻弄されながら家を守った水野氏側から描けば、従来とは違った戦国物語になるだろう。忠重は作品登場数だけを見れば著名武将には及ばないものの、その生涯には戦国時代の「生存」「家族」「主従」「領国」「政権交代」という重要なテーマが凝縮されている。今後、水野勝成や於大の方、刈谷の地域史への関心がさらに高まれば、水野忠重自身を中心に据えた小説、ドラマ、漫画、ゲームなどが生まれる可能性も十分にある人物なのである。

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■ IFストーリー(もしもの物語)

もし水野忠重が慶長5年7月19日に命を落としていなかったら

水野忠重の生涯において、最も大きな「もし」を考えられる瞬間は、慶長5年(1600)7月19日に起きた加賀井重望との刃傷事件である。史実では忠重はこの事件によって関ヶ原の戦いを目前にして命を落とした。しかし、もしその日の争いが起こらなかった、あるいは忠重が負傷しながらも生き延びていたとしたら、その後の水野家の歴史には少なからぬ変化が生じていた可能性がある。忠重は当時すでに約60歳であり、若い頃から織田信長、徳川家康、豊臣秀吉という三つの政権を経験してきた老練な大名だった。しかも家康の母方の叔父という血縁関係を持ち、小牧・長久手をはじめとして徳川方の軍事行動にも参加していた。関ヶ原直前という時期にこの人物が健在であれば、家康にとって忠重は単なる一大名ではなく、東海道と三河周辺の事情を熟知した信頼できる古参の協力者として利用価値の高い存在になっていたと考えられる。

東軍に加わる水野忠重――刈谷は東海道防衛の重要拠点へ

もし忠重が生存していれば、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍側に属した可能性が極めて高い。忠重は家康の叔父であり、過去にも徳川軍と行動をともにしているうえ、秀吉死後には家康との関係を再び強めていたからである。その場合、忠重の役割として考えられるのが、刈谷を中心とした三河西部と尾張方面の防備である。刈谷は三河と尾張を結ぶ交通上の重要地点に位置し、西方から東海道を進む軍勢を監視するうえで価値があった。関ヶ原前夜には西軍方の勢力が美濃・伊勢方面に集まり、東軍側も各地で軍勢を移動させていた。忠重が刈谷城主として健在であれば、城の守備だけでなく、徳川方の兵站や軍勢通過の支援、周辺勢力への働き掛けなどを任された可能性もある。長年領主として地域を治めてきた忠重には、単なる戦闘能力だけでなく、土地勘と在地勢力との関係があった。そのため家康は忠重を前線の突撃役ではなく、東海道方面の安定を支える調整役として配置したかもしれない。

関ヶ原本戦に出陣した忠重――家康の叔父として本陣近くにいた可能性

さらに大胆に想像するなら、忠重自身が軍勢を率いて関ヶ原本戦へ参加する展開も考えられる。忠重は高天神城攻めや小牧・長久手の戦いを経験しており、60歳という年齢ではあっても軍を率いる能力を失っていたとは限らない。もし関ヶ原へ出陣したなら、家康は忠重を完全な先鋒として危険な戦場へ送り込むよりも、本陣周辺または徳川譜代勢に近い位置へ置いた可能性がある。忠重の存在そのものが、家康にとって母方一族の有力者が東軍に加わっていることを示す象徴にもなるからである。一方で忠重は独立した大名でもあったため、家康の親族でありながら一定の兵を率いる諸将の一人として配置されたとも考えられる。戦況が動けば、西軍主力への備え、あるいは敗走する西軍の追撃などを担当したかもしれない。もしそこで明確な軍功を挙げていれば、戦後の水野家の所領は史実以上に加増された可能性も生まれてくる。

忠重が生き残れば、水野勝成の立場はどう変わったのか

忠重生存の影響を最も強く受ける人物は、嫡男の水野勝成である。史実では忠重の急死によって勝成が家督を継ぎ、水野家の当主として徳川時代へ進んだ。しかし忠重が関ヶ原後も生きていれば、勝成の家督相続は数年から十年以上遅れた可能性がある。これは勝成の人生にとって大きな変化だっただろう。若い頃の勝成は父と激しく対立し、長期間の放浪を経験した人物である。しかし晩年には忠重と和解し、水野家へ復帰していた。もし父子が関ヶ原以後も同じ家中で生活していれば、両者の関係がさらに修復される時間が生まれていたかもしれない。忠重は長年の領国経営経験を勝成へ伝え、勝成は父のもとで軍事だけでなく行政や家臣統率を学ぶことになった可能性がある。後に福山藩主として城下町建設や領国経営に手腕を示した勝成を考えると、父忠重から直接受け継いだ経験が増えていれば、さらに異なるタイプの大名へ成長していたことも想像できる。

反対に再び父子が衝突する未来もあり得た

もっとも、忠重と勝成が生涯穏やかな父子関係を築いたとは限らない。勝成は非常に独立心が強く、若い頃には父の命令や家臣団の規律に収まりきらない性格だった。関ヶ原後、徳川家康の天下がほぼ確定し、水野家にも安定した大名統治が求められるようになれば、保守的に家を守ろうとする忠重と、自らの武功によってさらなる出世を望む勝成の間に再び対立が生じる可能性もある。忠重が刈谷にとどまり地域支配を固めようとする一方、勝成は戦場を求めて外へ出ようとするかもしれない。その場合、家康が再び仲裁に入り、勝成へ独立した所領を与えるという展開も考えられる。そうなれば、水野家は忠重系と勝成系の二系統へ早い段階で分かれ、双方が徳川譜代大名として並立する未来さえ想定できる。

関ヶ原後の加増――刈谷より大きな領地を得ていた可能性

関ヶ原で東軍が勝利した後、家康は諸大名の領地を大規模に再配置した。西軍方の大名から没収した領地を東軍諸将へ与え、多くの大名が加増・転封されている。忠重が関ヶ原で功績を挙げていた場合、水野家にも何らかの恩賞が与えられた可能性は十分にある。史実では勝成が刈谷を継ぎ、その後に大和郡山、さらに備後福山へと移って十万石の大名となった。しかし忠重が生存していれば、この加増の流れが父の代から始まっていたかもしれない。例えば三河国内での加増、尾張・美濃方面への転封、あるいは東海道沿いの重要拠点を任される可能性が考えられる。家康にとって忠重は血縁者であるうえ、織田・豊臣政権を経験した古参の大名だった。新しい徳川政権の安定を考えれば、その経験を利用する価値は大きかったはずである。

もし水野忠重が初期江戸幕府の相談役になっていたら

忠重が関ヶ原後も数年生存した場合、戦場よりも政治面で存在感を発揮する未来も考えられる。忠重は織田信長の支配下で一度没落した水野家を再興し、豊臣秀吉の天下統一にも対応し、最後には家康の勢力へ戻ってきた人物である。この経験は、江戸幕府成立直後の大名統制において貴重なものだった。諸大名がどのような理由で主君へ不満を抱くのか、領地替えが家中へどのような影響を及ぼすのか、旧豊臣系大名をどこまで信用すべきなのかなど、忠重は自らの人生を通じて理解していた可能性がある。家康が忠重を形式的な幕府重職に就けたかどうかは別として、親族かつ古参武将として意見を求めた展開は想像できる。忠重が家康へ、一族を追い詰めすぎた場合の危険性や領主層の心理について助言する人物となっていれば、徳川政権の形成に別の形で影響を与えたかもしれない。

大坂の陣まで生きていた場合――70歳を超えた老将として徳川方を支援

さらに忠重が長寿を保ち、慶長19年(1614)の大坂冬の陣まで生きたと仮定すると、年齢は70歳を超える。それでも戦国時代には、高齢になっても軍議や後方支援で活動した武将は存在した。忠重本人が直接槍を取って突撃することは考えにくいが、嫡男勝成を徳川軍へ送り出し、自身は領国で兵站や留守居を担当する展開が考えられる。あるいは家康の近くで豊臣家への対応を協議する老臣の一人になっていたかもしれない。忠重は豊臣政権下で大名だった経験を持つため、大坂方の武将や豊臣恩顧大名の心理を理解する人物として重宝された可能性もある。そして勝成が大坂の陣で史実通り活躍すれば、父忠重は自らが育て、かつて勘当した息子が徳川天下を完成させる戦いで大功を挙げる姿を見ることになる。これは史実では実現しなかった父子の物語として非常に象徴的である。

忠重と勝成がともに福山へ移る未来

史実では勝成はのちに備後福山十万石へ移され、福山城と城下町の建設を進めて近世大名として高い評価を得た。もし忠重が非常に長寿で、勝成の福山入封まで存命だったと仮定すれば、水野家の歴史はさらに興味深いものになる。勝成が新領国の経営を担当し、忠重が隠居としてその背後から支えるという二代体制が成立した可能性がある。忠重には刈谷での領国経営経験があり、勝成には戦場で培った強烈な行動力がある。慎重な父と大胆な息子という対照的な二人が協力すれば、福山藩の領国形成は史実以上に早く進んだかもしれない。一方、城下町建設や家臣配置をめぐって意見が対立し、再び激しい父子論争が起こる展開も十分あり得る。その意味でも、水野忠重が長生きした世界では、勝成の人生そのものが大きく変化していただろう。

もし加賀井重望との事件そのものが政治的陰謀だったなら

もう一つのIFとして考えられるのが、忠重を襲った事件に大きな政治的背景が存在していたという設定である。史実上、事件の真相について断定することはできないが、関ヶ原直前という時期であったため、創作ではさまざまな展開を描くことができる。もし忠重が西軍側の計画を事前に察知し、それを家康へ伝えようとしていたとすれば、加賀井重望との争いは単なる酒席の刃傷ではなく、情報戦の一部だったという物語になる。忠重が襲撃を切り抜け、重望から得た情報を家康へ届けたことで東軍が西軍の動きを早期に把握するという展開である。この場合、忠重は戦場で直接大功を挙げるよりも、関ヶ原勝利の裏側を支えた諜報・外交面の功労者として描くことができる。戦国を長く生き抜いた忠重だからこそ、単純な武勇ではなく人脈と情報によって天下分け目の戦いへ影響を与える物語は説得力を持つ。

もし忠重が西軍へ傾いていたら――家康と母方一族が敵味方に分かれる世界

さらに史実とは大きく異なる大胆なIFとして、忠重が西軍側へ加わる世界も想像できる。可能性としては低いものの、忠重は豊臣秀吉から官位を受け、豊臣政権下で大名として扱われた人物でもある。もし秀吉への恩義を最優先し、石田三成ら豊臣政権維持を掲げる勢力へ参加したとすれば、家康にとって母方の叔父が敵となる非常に劇的な構図が生まれる。忠重が刈谷を西軍の拠点として固めれば、東海道に近い三河西部で徳川方は大きな警戒を強いられることになる。勝成が父に従うのか、それとも家康に従うのかという父子対立も発生するだろう。勝成が家康側に残れば、かつて一度和解した父子が関ヶ原を前に再び敵味方へ分かれることになる。戦場で忠重と勝成が対峙するという展開は完全な創作ではあるが、水野家の複雑な主従関係を象徴する歴史ドラマになり得る。

もし水野家が独立大名として勢力を拡大していたら

もっと早い時点まで歴史を巻き戻し、忠重が刈谷へ復帰した天正8年(1580)頃から水野氏が独立路線を強めた世界も考えられる。尾張と三河の境界を押さえる水野氏が知多半島や西三河へ勢力を広げ、織田信長の死後に家康へ完全従属せず、一つの独立大名として行動するという想定である。忠重は甲斐や尾張方面の軍事事情にも通じ、勝成という勇猛な後継者もいた。この父子が協力して勢力を伸ばせば、数万石規模の国人領主から十万石以上の大名へ発展する可能性も物語としては描ける。ただし現実には、徳川家康や羽柴秀吉という巨大勢力の狭間で独立を維持することは極めて難しかった。したがってこのIFでは、忠重の最大の敵は戦場の武将ではなく、「どの天下人にも飲み込まれずに家を保てるか」という政治そのものになる。成功すれば、水野家が尾張・三河第三の勢力として残る歴史もあり得たかもしれない。

水野忠重のIFが面白い理由――本人の死が一族の世代交代と重なっている

水野忠重を題材とするIFストーリーが興味深い最大の理由は、その死がちょうど戦国から江戸へ変わる瞬間に重なっているからである。慶長5年という年は、徳川家康が天下人へ進む決定的な年だった。忠重がその直前に死亡したため、水野家では同時に父から勝成への世代交代が起きた。もし忠重があと5年、10年生きていれば、水野家は戦国型の領主である忠重と、江戸初期の大名へ成長する勝成という二世代が同時に新しい徳川政権へ参加することになった。その結果、刈谷藩の成立時期、勝成の出世、家臣団の構成、所領の規模などが史実とは異なっていた可能性がある。一人の武将が生き延びるだけで、家全体の世代交代の時期が変わり、その後の大名配置まで変化する。これこそ歴史IFの面白さである。

IFストーリーの結末――「天下を取らずとも歴史を変えた水野忠重」

もし水野忠重が関ヶ原直前の事件を生き延びていたなら、彼自身が天下人になることはまずなかっただろう。しかし、歴史を変える人物になる可能性は十分にあった。関ヶ原で東軍へ参加し、家康の勝利を支え、戦後に水野家の所領を増やし、勝成へ大名としての心得を伝える。さらに長生きすれば、大坂の陣で勝成の活躍を見届け、徳川天下の完成を自らの目で確認することもできたかもしれない。その世界では、水野忠重は「関ヶ原直前に突然倒れた武将」ではなく、「戦国から江戸まで三代の天下人を生き抜いた水野家中興の祖」として、現在以上に広く知られていた可能性がある。逆に父が長く存命だったことで勝成の独立が遅れ、後の福山藩十万石という発展が別の形になっていた可能性も否定できない。歴史の面白さは、一つの出来事が単独で終わるのではなく、後の世代へ連鎖していく点にある。水野忠重の突然の死もまた、勝成の家督相続を早め、水野家が新しい時代へ進むきっかけとなった。もし忠重が生きていた世界を想像すると、史実で起きた出来事が決して必然ではなく、数多くの偶然と選択の積み重ねによって形作られていたことが見えてくる。水野忠重は、天下統一の主役ではなかったからこそ、「もしもう少し生きていたら」という想像によって戦国末期の歴史全体を別の角度から見直すことのできる人物なのである。

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