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合戦名 第二次木津川口の戦い
合戦の年月日 天正6年11月6日(1578年12月4日)
合戦の場所 木津川口
合戦の結果 織田水軍の勝利
交戦勢力 毛利水軍、村上水軍 織田水軍
指導者・指揮官 村上武吉 九鬼嘉隆
戦力 600隻 鉄甲船6隻

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概要 (説明はWikipediaより)

天正6年11月6日(1578年12月4日)に毛利氏と織田氏との間に起こった海戦である。

織田信長は、石山本願寺と勃発した戦闘(石山合戦)において本願寺を包囲し、兵糧攻めを行った。

そのため、本願寺は西国の大名・毛利輝元に兵糧や武器などの支援を求めた。

天正4年(1576年)7月、本願寺付近の海上を封鎖していた織田水軍は第一次木津川口の戦いで、毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗し、毛利軍の本願寺への補給を許してしまう。

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その後、織田信長は九鬼嘉隆に命じて、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙玉・火矢が効かない鉄甲船6隻を伊勢国大湊で建造させた。

『多聞院日記』によるとその大きさは縦22メートル・横12メートルあったとされ、当時としては空前の巨大さと防御力を持っていた。

ただ、この船が鉄甲船であったことを確認できる史料が多聞院日記以外に発見されておらず、多聞院日記の記述が伝聞と考えられることから、この船が鉄甲船であることを疑う意見も根強くある。

天正6年(1578年)6月26日、九鬼嘉隆は、完成した6隻の鉄甲船を率い、滝川一益の大船1隻とともに熊野浦を出発し、大坂湾へ向かった。

途中、淡輪もしくは雑賀の海上で雑賀衆など多数の小船が攻撃をかけてきたが、九鬼は敵を引きつけて大砲で一斉砲撃するという戦術を使い、これを撃退した。

7月17日には堺に到着。

翌日に大坂湾に到着すると、要所に船を配備し、再び大坂湾を封鎖した。

なお、9月30日に信長は堺に行き、これらの船を見物している。

この時に九鬼嘉隆と滝川一益、そして彼らの家臣に褒美が出された。

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11月6日、毛利水軍が第一次木津川口の戦いとほぼ同じ場所である、現在の木津川運河(現在の所在地は大阪市大正区)付近に姿を現した。

九鬼らが迎え撃つと、毛利水軍は彼らを囲み、南下。

午前8時頃から戦闘が始まる。

九鬼の6隻の鉄甲船は、敵を引きつけて、大将が乗っていると思われる船を大砲・大鉄砲で集中攻撃するという戦術をとった。

これを恐れた毛利水軍はそれ以上近づくことはできず、数百隻の船が退却していった。

戦闘が終了したのは正午頃であった。

なお、毛利水軍は、この戦いには敗れたものの、兵糧については石山本願寺に無事に搬入したという見方もある。

この戦いの結果、大坂湾の制海権が織田方のものとなったが、この戦いの後も兵糧や武器の搬入や、兵士の入城は行われている。

約2年後、顕如は織田信長に降伏し、石山本願寺は織田信長に明け渡されることとなる。

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