【時代】 室町時代後期(戦国時代)~ 戦国時代初期
【生誕】 応仁2年(1468年)
【死没】 永正13年11月8日(1516年12月1日)
【改名】 入道継岩、沙弥長胤(法名)
【別名】 通称:弥四郎、渾名:宇都宮氏中興の祖
【官位】 正四位下、下野守、右馬頭、下野守護
【氏族】 下野宇都宮氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将・戦国大名で、下野の宇都宮氏17代当主。

戦国時代初期に、室町時代から続く度重なる内乱、戦乱で没落した下野宇都宮氏を立て直し、支配体制、家臣団を再編する。

佐竹氏の中興の祖と呼ばれている佐竹義舜や蘆名氏の中興の祖蘆名盛高、那須氏や長沼氏、岩城氏など近隣の大名と争い大きく勢力を伸ばし、北関東最大の勢力にまで成長させ、下野宇都宮氏の最盛期を築き上げた。

また、下野宇都宮氏の戦国大名化に努めたため、宇都宮氏の中興の祖と呼ばれる。

成綱は実質的に北関東の覇権を制した。

応仁2年(1468年)、下野国守護の宇都宮正綱の嫡男として宇都宮城で誕生した。

母は常陸国佐竹氏の一族である石塚義親の娘。

父・正綱は芳賀盛高の子で芳賀高益と兄弟だと伝えられてきたが、近年の研究では、正綱は宇都宮等綱の次男で宇都宮明綱の実弟とする新説が浮上した。

宇都宮氏は南北朝時代の宇都宮氏綱の代に下野国守護、上野国守護、越後国守護を任され、三国を領する絶頂期を迎えた。

薩埵山体制の中心勢力にまで飛躍したが、体制崩壊後に一気に没落。

宇都宮持綱の代に幕府から上総国守護、京都扶持衆を任されるなど幕府派として重用されていたが、関東公方との度重なる対立によって再び没落していった。

叔父・宇都宮明綱や父・宇都宮正綱の頃から古河公方派に外交方針を転換し、宇都宮氏を再興するために腐心していた。

また、宇都宮明綱の小山氏との血縁関係を理由に宇都宮明綱・正綱の代は宇都宮領南部や都賀郡の一部の譲渡を条件に小山持政からの後見を受けており、実質的に小山家中に組み込まれていた。

しかし、そのおかげで小山氏からの侵攻を受けずに済んでいた。

成綱が生まれた時には京では応仁の乱の最中であり、関東でも享徳の乱の最中であり、戦国の乱世が到来しつつあった。

父・宇都宮正綱は文明9年(1477年)正月に、来年宇都宮社の式年遷宮を行う予定で縁起絵巻の転写など準備していたが、同年9月に、上野国白井の川曲の陣中で病死した。

そのため同年、成綱は10歳という若さで下野宇都宮氏17代当主となった。

また、宇都宮社の式年遷宮は予定通り文明10年(1478年)、成綱によって行われた。

家督相続後、成綱は小山氏の名将小山持政が没した混乱に乗じて、小山領の都賀郡などを侵攻するなど、幼いながら器量の高さを遺憾なく発揮し、宇都宮氏は瞬く間に勢力を盛り返している。

父・宇都宮正綱は下野宇都宮氏の庶流である武茂氏の家督を一時の間継いでいたので、成綱が宇都宮氏の家督を継いだ際、側近の多くは武茂氏の重臣達だった。

武茂氏の重臣達は、まだ若い成綱を軽視し、政治を専横した。

さらに成綱の宇都宮氏家督相続に不満を抱いていたために成綱の弟である武茂兼綱を擁立して叛乱を起こす。

成綱はこの状況を打破し、支配権を確立するために、成綱を支持する芳賀高益・芳賀景高とともに、武茂氏の重臣達を武力で一掃し実権を手にした。

さらには古河公方足利成氏からの公認も得て、圧伏させた。

この一連の騒動は当時勢いのあった家臣である芳賀氏と武茂氏の権力争いであり、この政争で敗北した武茂氏は権力中枢から脱落し、芳賀氏の台頭を招いた。

また、この間に芳賀氏内でも権力争いがあったといわれており、その闘争に勝利したのが芳賀景高である。

芳賀氏は芳賀高久以降、宇都宮一門化しており、絶頂期を築いた宇都宮氏綱の代には芳賀禅可が活躍している。

享徳の乱の乱中に、成綱は自立的だった一族の塩谷氏、笠間氏、横田氏、多功氏、今泉氏、上三川氏、壬生氏、西方氏などの従属性を強めさせ、家臣化させることに成功している。

また、これに平行して、宇都宮一族の庶流(武茂氏、松野氏など)、芳賀氏、益子氏などの直臣化を進めており、遅くとも15世紀の後半には、宇都宮成綱を頂点とする宇都宮家中が形成された。

この宇都宮家中が、戦国時代の宇都宮氏の家臣団の原型となった。

文亀3年(1503年)、積極的に勢力を拡大する成綱は、下野国塩原の地を巡って会津の長沼氏との争いが頻繁に起こるようになる。

また、同時期に蘆名氏の蘆名盛高も宇都宮領である下野国箒根を狙い北関東に侵攻しようとする動きを見せていた。

戦国時代初期の永正期に、宇都宮成綱と芳賀高勝の間に起こった大きな内訌で、最終的には宇都宮錯乱にまで発展した。

永正3年(1506年)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が対立して永正の乱が勃発すると、成綱は宇都宮へ逃れてきた婿の高基を庇護し、古河公方家の争いに介入。

この争いに乗じて勢力の拡大を図った。

成綱は宇都宮家中が一致していないことを危惧し、また自身への権力の集中も兼ね、芳賀氏の粛清討伐を決意する。

永正8年頃(1511年)、成綱と芳賀高勝の争いが激化し、武力衝突にまで発展するが、高勝の謀略によって成綱は強引に隠居させられた。

同時に、芳賀高勝によって嫡子の宇都宮忠綱が擁立され、遅くとも永正9年(1512年)には、宇都宮氏第18代当主となった。

しかし、隠居後も成綱が実質的な当主であり、実権を握っていた。

また、成綱はこの間に弟 (忠綱にとっては叔父)の孝綱を塩谷氏に送り込み家督を継がせており、また、同じく成綱の弟の兼綱も武茂氏の家督を継承している。

さらには16世紀初頭に下総結城氏の結城政朝に姉の玉隣慶珎大姉を嫁がせており、同盟関係を築いていた。

この成綱の隠居と芳賀高勝による忠綱擁立の真相は、実は成綱による家中の完全掌握を狙った計略の1つであった。

永正11年(1514年)、成綱の正室の実家で婚姻同盟関係だった上那須氏の那須資親が没し、同年那須資永と山田資久の後継者争いが勃発し上那須氏が滅亡すると成綱は血縁関係を理由に宇都宮一族の者(宇都宮興綱)を上那須氏へ継がせ再興し、那須氏を内部から完全掌握しようと目論んでいたが、その脅威を察知した下那須氏の那須資房によって先手を打たれ那須氏は統一を果たしたためその野望は実現しなかった。

成綱の岳父にあたる上那須氏当主の那須資親は永正の乱では成綱に従い足利高基を支持していたが、統一那須氏当主となった那須資房は佐竹義舜や小山成長らとともに足利政氏に与して成綱と対立関係になった。

永正11年(1514年) 7月頃に、古河公方家の内紛で足利政氏を支持していた芳賀氏が、宇都宮錯乱を経て足利高基を支持していた宇都宮成綱・忠綱の支配体制に取り込まれることによって、当時祇園城に移座していた足利政氏の背後の守りがなくなった。

これに危機感を覚えた古河公方足利政氏は、佐竹氏・岩城氏に参陣要請を出し、それに応じた佐竹義舜・岩城由隆・佐竹氏と同盟関係であった那須氏の那須資房は永正11年7月29日に出陣し、2万もの大軍を率いて下野国に侵攻。

同時に、宇都宮氏と佐竹氏による北関東の覇権を巡っての争いの1つでもあった。

永正11年(1514年)の竹林の戦いで佐竹義舜・岩城由隆勢に勝利してから2年後の永正13年(1516年)6月、常陸国の戦国大名佐竹義舜は再び陸奥国の戦国大名岩城由隆とともに大軍を率いて下野国に侵攻。

成綱は病による病状があまりよくなかったため嫡子の忠綱を名代として出陣させ、佐竹義舜・岩城由隆勢と下野国上那須庄浄法寺縄釣で対峙し、一戦した。

結果は大勝で佐竹義舜・岩城由隆勢は撤退。

宇都宮勢はそのまま追撃し、下野国武茂庄で一戦し勝利、さらには常陸国の月居まで侵攻して佐竹義舜・岩城由隆勢に壊滅的な被害を与えた。

この合戦で足利政氏の敗北は決定的になり、足利高基は名実ともに古河公方となった。

これによって高基の義父である成綱や義兄弟である忠綱の権威も相対的に強化され、北関東一の確固たる地位を獲得した。

また、佐竹氏との覇権争いに勝利し、宇都宮氏は当時の関東の中で強い影響力を持つようになり、この頃の宇都宮氏は北関東随一の勢力となった。

実質的に成綱は北関東の覇者たる存在となった。

成綱はさらなる躍進を狙うが、永正13年11月8日(1516年12月1日)宇都宮城内で没した。

享年49。

翌年には佐竹氏の中興の祖佐竹義舜が没しており、両者の死によって、北関東の情勢が変わっていくことになる。

宇都宮成綱によって内紛を克服し、北関東で最大勢力の戦国大名に飛躍した下野宇都宮氏は、忠綱の代に大永の内訌が勃発し、大きく没落。

興綱の代では芳賀高経、芳賀高孝、壬生綱房の専横を許してしまう。

結果的に近隣の佐竹氏や那須氏、後北条氏に大きく後れをとってしまうことになる。

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