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合戦名 長篠の戦い
合戦の年月日 天正3年5月21日(1575年6月29日)
合戦の場所 三河国長篠城・設楽原(設楽ヶ原)
合戦の結果 織田・徳川連合軍の圧勝
交戦勢力 織田・徳川連合軍 武田軍
指導者・指揮官 織田信長、徳川家康 武田勝頼
戦力 38,000 – 72,000 11,000 – 25,000

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った合戦である。

決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)(『藩翰譜』、『信長公記』)だったため、長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。

甲斐国・信濃国を領する武田氏は永禄年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へも侵攻していた。

その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。

しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。

そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦)したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。

しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。

一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。

自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。

武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。

天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属。

すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。

武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始。

奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。

これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った。

また、大岡弥四郎(大賀とも)の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、大岡の調略に成功した武田軍が岡崎城を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある。

1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。

しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。

5月14日の夜、城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。

夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って武田軍の厳重な警戒線を突破した鳥居が、15日の午後にたどり着いた岡崎城では、既に信長の率いる援軍3万人が、家康の手勢8000人と共に長篠へ出撃する態勢であった。

信長と家康に戦況を報告し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返したが、16日の早朝、城の目前まで来たところで武田軍に見付かり、捕らえられてしまった。

最初から死を覚悟の鳥居は、武田軍の厳しい尋問に臆せず、自分が長篠城の使いであることを述べ、織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定であることを堂々と語った。

鳥居の豪胆に感心した武田勝頼は、鳥居に向かって「今からお前を城の前まで連れて行くから、お前は城に向かって『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、お前の命を助け、所領も望みのままに与えてやろう」と取引を持ちかけた。

鳥居は表向きこれを承諾したが、実際に城の前へ引き出された鳥居は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。

これを聞いた勝頼は激怒し、その場で部下に命じて鳥居を磔にして、槍で突き殺した。

しかし、この鳥居の決死の報告のおかげで、援軍が近いことを知った貞昌と長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができたという。

信長軍30,000と家康軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。

設楽原は原と言っても、小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる場所であった。

ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。

これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城だった。

海外の過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師の往来を理由として信長がイタリア戦役を知っていた可能性に言及されることもある。

つまり信長側は、無防備に近い鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。

一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。

信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したと言われているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。

そして長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けた。

これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり酒(水盃)を飲んで決別したとも言う。

「信長公記」にある武田軍の動きは、「長篠城へ武将7人を向かわせ、勝頼は1万5千ほどの軍勢を率いて滝沢川を渡り、織田軍と二十町(約2018m)ほどの距離に、兵を13箇所ほどに分けて西向きに布陣した」というものである。

武田のこの動きを見た信長は、「今回、武田軍が近くに布陣しているのは天の与えた機会である。ことごとく討ち果たすべきだ」と思い、味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた(『信長公記8巻より」』)。

相手の油断を誘ったという面もあるが、鉄砲を主力とする守戦を念頭に置いていたため、武田を誘い込む狙いであった。

5月20日深夜、信長は家康の重臣であった酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び出して酒井忠次に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4,000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた(『信長公記』)。

別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。

鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦であり、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦という構成であったが、奇襲の成功により全て落とされる。

これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たした。

さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。

この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方の動きは、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死。

武田の敗残兵は本隊への合流を図ってか豊川を渡って退却するものの、酒井奇襲隊の猛追を受けたために、長篠城の西岸・有海村においても春日虎綱の子息・香坂源五郎(諱は「昌澄」ともされるが不明)が討ち取られている。

このように酒井隊の一方的な展開となったが、先行深入りしすぎた徳川方の深溝松平伊忠だけは、退却する小山田昌成に反撃されて討死している。

そもそもこの作戦は、20日夜の合同軍議中に酒井忠次が発案したものであったが、信長からは「そのような小細工は用いるにあらず」と頭ごなしに罵倒され、問答無用で却下された。

しかし、信長がこのように軍議の場で忠次の発案を却下したのは、作戦の情報が武田軍に漏れる可能性を恐れてのことであった。

軍議の終了後、信長は忠次を密かに呼びつけて、「そなたの発案は理にかなった最善の作戦だ」と忠次の発案を褒めたたえ、直ちに作戦を実行するよう忠次に命じたとする逸話が『常山紀談』に載せられている。

5月21日早朝、鳶ヶ巣山攻防戦の大勢が決したと思われる頃の設楽原では、武田軍が織田・徳川軍を攻撃。

戦いは昼過ぎまで続いた(約8時間)が、織田・徳川軍から追撃された武田軍は10,000名以上の犠牲(鳶ヶ巣山攻防戦も含む)を出した。

織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。

織田・徳川軍には主だった武将に戦死者が見られないのに対し、『信長公記』に記載される武田軍の戦死者は、譜代家老の内藤、山県、馬場を始めとして、原昌胤、原盛胤、真田信綱、真田昌輝、土屋昌続、土屋直規、安中景繁、望月信永、米倉丹後守など重臣や指揮官にも及び、被害は甚大であった。

勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、一時は菅沼定忠に助けられ武節城に篭ったが、信濃の高遠城に後退した。

上杉の抑え部隊10,000を率いていた海津城代春日虎綱(高坂昌信)は、上杉謙信と和睦した後に、勝頼を出迎えて、これと合流して帰国したという。

長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。

また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化した。

武田氏は長篠において、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し、領国の動揺を招いた。

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