【時代】 戦国時代
【生誕】 永正13年(1516年)
【死没】 天正10年(1582年)
【別名】 有清、武包、治部少輔、伯耆守、但馬守
【主君】 長尾為景、晴景、景虎(上杉謙信)、景勝
【氏族】 安田氏

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概要 (説明はWikipediaより)

戦国時代の武将。

上杉氏の家臣。

越後国北蒲原郡白河庄の安田城主。

安田氏は北越後の豪族・揚北衆の一つ。

桓武平氏大掾氏流城氏の末裔とされる。

上杉謙信の家臣に安田景元、安田顕元、安田能元などの同姓の人物がいるが、こちらは大江姓安田氏であり別の一族である。

本拠もそれぞれ安田城ではあるが、長秀の平姓安田氏は越後蒲原郡(現在の新潟県阿賀野市)の安田城主であり、大江姓安田氏は越後刈羽郡の安田城主である。

また、出自から長秀の方の安田氏を大見安田氏、景元らの方の安田氏を毛利安田氏と呼ぶこともある。

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長秀の史料初見は享禄4年(1531年)であり、その頃既に長尾為景に属する豪族の一人として署名が見られる。

以降は通称の「治部少輔」として史料上散見される。

なお「安田氏系譜」では別称を但馬守としたとしているが、史料上からは確認できない。

上条定憲の乱で長尾氏に従って以降、長尾氏・上杉氏の家臣として従い、特に永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいては上杉政虎(謙信)従って勇戦し、同じ揚北衆の色部勝長・中条藤資らと共に謙信から「血染めの感状」を賜った。

謙信の死後に起きた御館の乱では上杉景勝を支持。

安田城は上杉景虎を支援する蘆名氏による攻撃を受けている。

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長秀と比定されている「安田治部少輔」の史料終見は天正9年(1581年)である。

没年は、長秀の末裔が仕えた米沢藩が後に編纂した「御家中諸士略系譜」によると天正10年(1582年)。

安田氏の家督は河田元親の三男である与親が相続した。

一方、長秀の末裔が幕末に編纂した「安田氏系譜」では長秀の没年を弘治2年(1556年)とし、以後に史料上現れる「安田治部少輔」は長秀の子で、名を安田有重としている。

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