【生誕地】 徐州広陵郡射陽県
【生誕】 153年
【死没】 212年
【字】 子綱
【別名】 東部(官称)
【主君】 孫策→曹操→孫権
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国後漢末期の政治家、学者。
字は子綱。
徐州広陵郡射陽県の人。
子は張靖・張玄。
孫は張尚。
孫策・孫権に仕えた。
『三国志』呉志に伝がある。
若い頃、都に出て学問を修めた。
その後、故郷に戻り、太守の趙昱から孝廉に挙げられ、茂才に推挙された。
三公の役所から招聘を受けたが出仕しなかった。
戦乱を避けて江東に移住した。
後に孫策が挙兵したとき、初めて仕官した。
孫策は上奏して正議校尉に任命した。
孫策の丹陽討伐に従軍し、このときに孫策が陣頭で指揮を執ろうとしたため、「総大将たる者が最前線に立つべきではない」と諌めた。
張昭や同郷の秦松・陳端と共に、孫策の参謀として仕えた。
張昭と張紘のうち、どちらかが随行するときは、必ずもう一人が留守を守ったという(『呉書』)。
呂布が徐州牧となると、張紘を茂才に推挙して呼び寄せようとしたが、張紘は呂布を嫌悪しており、また孫策も張紘を引き留めたいと思っていたため、孫策が代わって呂布に断りの手紙を書いて送ったという(『呉書』)。
[sangokushi-2]199年、孫策の命で許都に使者として赴いた時、曹操から侍御史の位を与えられ、留まるよう要請された。
その時期に孔融達と親しく交際した。
孫策の死後、その隙を突いて曹操が攻めようとした時、「他人の喪に付け込むべきではない。孫権に恩義を施すべきです。」と主張した。
曹操はその言葉を聞き出陣を取り止め、孫権に討虜将軍の地位と会稽太守の職を与えた。
曹操はまた、孫権を自分の傘下に収めようと考えていたため、張紘を使者として孫権の元に送った。
孫権は自らの下に戻った張紘を会稽東部都尉とした。
孫権にも厚く信頼され、常に「東部」との尊称で呼ばれた(『江表伝』)。
また、張昭と共に計略や外交の任務に当たった(『呉書』)。
孫権の母の呉夫人からも孫権のことを託され(『呉書』)、孫権の日常的な振る舞いについても諫言をし、その行状を改めさせた。
文章作成の能力に長けていたため、文書の起草や史書の記録に携わり、詩や賦といった文学作品も多く残した。
陳琳にも賞賛されている(『呉書』)。
故郷の太守趙昱は笮融により殺害されていたが、当時張紘には力がなく、笮融を討てないまま悲憤するしかすべがなかった。
このため会稽東部都尉に任じられた後は役人を派遣し、趙昱の故郷の琅邪国の相の臧覇に依頼して、趙家の縁戚の子に祭祀を継がせるよう取り計らった。
[sangokushi-3]孫権は江夏に遠征した際、張紘を都に呼び寄せて留守を任せ、都尉としての仕事もこなさせた。
その働きに対し、孔融は手紙を送り功績を称えた。
孫権が、張紘の留守役としての功績を称し褒賞を与えようとしたが、張紘は固辞した。
孫権が合肥に出兵したとき、長史に任命され従軍した。
孫権が軽装騎兵のみを率いて前線に立とうとしたため、これを戒めた。
また、合肥から帰還した翌年にも出兵しようとしたため、再び戒めた。
孫権に呉郡から秣陵(後の建業)へ遷都するよう進言したため、211年に遷都が実施された(「呉主伝」)。
張紘は呉郡に、孫権の家族を迎えに行く任務を与えられたが、呉郡へ向かう途中で病に罹り、間もなく死去した。
60歳であった。
死の直前、子の張靖に孫権への遺書を託した。
その手紙を読んだ孫権は涙を流したという。
小説『三国志演義』では、張昭と共に「江東の二張」と称される在野の賢人として登場する。
先に仕えていた張昭の説得で、孫策に仕えている。
[sangokushi-4]張紘(最新無料動画を楽しみましょう♪)
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