【生誕地】 徐州琅邪郡陽都県
【生誕】 建安8年(203年)
【死没】 建興2年(253年)
【字】 元遜
【主君】 孫権 → 孫亮

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概要 (説明はWikipediaより)

中国の三国時代の政治家。

呉に仕えた。

字は元遜。

徐州琅邪郡陽都県の人。

諸葛瑾の長男で、蜀(蜀漢)の丞相の諸葛亮の甥にあたる。

弟に諸葛喬・諸葛融。

子は諸葛綽・諸葛竦・諸葛建。

若い頃から機知と才気に溢れていた。

一方で性格は父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮とは正反対と言っても良く、思慮深いとは言えず、いい加減で、野心家であり、弁論でも口達者で他人をやりこめるのが得意であり、才能をひけらかすのが好きであったことから、家族から将来性を心配されていた。

その才能に見合わぬ性格の問題から、諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。

諸葛亮も陸遜に宛てた書状の中でわざわざ「恪は大雑把でいい加減なので兵糧管理などは向かない」と判じて注意し、更に陸遜も彼をつかまえて「その人を人と思わない性格をどうにかしなさい」と窘めている。

諸葛恪は張休・顧譚・陳表とともに皇太子の孫登の側近となり、四人は孫登の四友と呼ばれた。

諸葛恪は「丹陽郡は山が険しく、住民の多くは勇敢なのですが、丹陽郡の奥地には不服住民(山越)が多いです。自分が丹陽郡に赴けば、3年で武装兵4万人を手に入れられます」と上申した。

嘉禾3年(234年)、諸葛恪は撫越将軍・丹陽太守に任じられ、陳表・顧承らとともに山越の討伐を命じられた。

諸葛恪は策略を使って、あまり戦うことなく、3年で山越を帰順させ、4万人以上の山越兵を手に入れる事に成功した。

その功績をたたえられ、威北将軍に任ぜられ、都郷侯に封ぜられた。

赤烏4年(241年)、皇太子の孫登が死去すると、翌赤烏5年(242年)、孫和が皇太子となった。

しかし、孫和と孫覇との間で継承争いが起き、家臣団が真っ二つになって争いあう事態となった。

諸葛恪は孫和を支持したが、長男の諸葛綽は孫覇を支持したようである。

結局、孫和は太子を廃されたうえに幽閉され、孫覇は処刑され、孫亮が皇太子となった(二宮事件)。

孫権はこの事について諸葛恪に諸葛綽の再教育を命じた。

諸葛恪は諸葛綽を毒殺した。

赤烏8年(245年)、陸遜は諸葛恪に謂うには 「私の前に在る者には、私は必ず同じく昇るよう奉じ、私の下に在る者には、これを扶持している。今、観たところ君の気は上を凌ぎ、意は下を蔑ろにしている。安徳の基とはならない」。

諸葛恪は陸遜が行節面によって己れを嫌っている事を知っており、ゆえにその道理を広げて陸遜の主旨に賛同したのである。

赤烏9年(246年)、たびたび魏との戦いで功績を挙げたことにより、大将軍に任ぜられた。

陸抗と任地を交替し、節を仮されて武昌に駐屯し、陸遜に代って荊州の事を典領した。

太元元年(251年)12月、皇太子の孫亮がまだ幼かったので、孫権は寝疾(病臥)すると、付託の事を討議させた。

時に朝臣の咸なが皆な諸葛恪に意を注いでおり、孫峻が上表して諸葛恪の器は輔政を任せ、大事を付託すべきものだと。

孫権は諸葛恪が自らの働きの為に専断するのを嫌っていたが、孫峻は当今の朝臣では皆な及ぶ者が莫いとして固く自説を保ち、かくして諸葛恪を徴した。

後に諸葛恪らを臥内で引見し、牀下に詔を受けさせた、諸葛恪は太子太傅に任ぜられた。

神鳳元年(252年)4月、孫権が危篤になると、孫弘・孫峻・滕胤・呂拠と共に後事を託された。

次の日、孫権は崩御し、孫亮が即位した。

孫弘は諸葛恪と仲が悪かったことから、孫権の死を隠して諸葛恪を排除しようとしたが、逆に露見し誅殺されてしまう。

これにより、その後の呉の実権は諸葛恪が握ることになった。

建興元年(252年)閏4月、諸葛恪は皇帝の孫亮の太傅となった。

官吏を監察する校官の制度を廃止し、未納の税金を帳消しにし、関税を廃止したので、絶大な支持を受けた。

韋昭(韋曜)を推薦して太史令とし、『呉書』を編纂させた。

またその頃、孫和の妃の張氏は黄門の陳遷を派遣し、建業に行って皇后に上疏させると共に諸葛恪にも挨拶をさせた。

諸葛恪の姉の子が張氏である。

その面会も済んで退出しようとしている時に諸葛恪は陳遷に言った、「お妃様にお伝え下さい、間も無く彼等よりも優位な立場にお立て致しますから」。

その年の正月に孫和は南陽王に封ぜられ、長沙に追い遣られていた。

この言葉が些か世間に泄れる事となった。

それに加え諸葛恪は、遷都を行おうとの意図で武昌の宮殿を整備させていた事から、世間は孫和を武昌に迎えようとしているのだとも噂をした。

同年10月、諸葛恪は東興に大きな堤を造り、堤の左右の山地に堤を挟む形で二つの城を築いた。

同年12月、魏の胡遵・諸葛誕らは東興を攻め堤を決壊させるべく、船を並べて浮橋を築き、浮橋を渡り堤の上に進軍し、堤の上に陣を張り、堤の左右の山地に築かれた二つの城に攻撃をかけた。

そこで、諸葛恪は丁奉・留賛・呂拠・唐咨らを先鋒として魏軍を攻撃し、撃破した。

敗走した魏軍はあわてて浮橋に殺到したが、呉の朱異によって浮橋が壊されたので大混乱になり、魏軍は韓綜・桓嘉をはじめ数万人が戦死した(東興の戦い)。

呉はこの戦いで多大な牛馬や軍事物資を手に入れた。

諸葛恪は陽都侯に封ぜられ、揚州と荊州の牧に任ぜられ、国内の軍事全般の指揮を任されることになった。

『建康実録』によればこのとき丞相に昇進している。

建興2年(253年)、前年の戦いの勝利に気をよくした諸葛恪は周りの諫めを無視して、大軍を指揮して魏に侵攻し、4月、合肥新城を包囲した。

魏の毌丘倹・文欽は合肥新城の守将の張特とともにこれを防いだ。

諸葛恪は合肥新城を攻め落し、張特はこの状況でまともに戦っても勝機は無いと見て、諸葛恪に対し「魏の法では、城を100日守れば、その将兵は敵に降伏しても罪にはならず、家族が処刑されることもない。数日したら100日になるので、それから降伏する」と述べた。

このため諸葛恪はこれを信じ、城への攻撃を中止した。

ところが張特は、その間に密かに城壁を修復し、呉軍に対し徹底抗戦を始めた。

諸葛恪はこれに激怒して城を攻めたものの、呉軍内部で疫病が大流行し、非常に多くの兵が亡くなった。

同年7月、魏の太尉の司馬孚が東征して合肥新城の救援に赴くと、諸葛恪は合肥新城の包囲を陥落させられずに撤退することとなった。

8月に呉に帰還した(合肥新城の戦い)。

諸葛恪はこの戦の失敗と相次ぐ独断専行のため人望を失ってしまう。

そして同年10月、孫峻らのクーデターにより殺され、諸葛瑾の心配した通り諸葛恪と弟の諸葛融の一族は皆殺しにされてしまう。

諸葛恪の死体は葦のむしろに巻かれ、丘陵地帯に投げ捨てられた。

後に諸葛恪の元部下達が諸葛恪の遺体を回収して埋葬した。

諸葛恪が誅殺されると、孫峻は諸葛恪に因縁を付け、南陽王の璽綬を孫和から没収し新都に強制移住させ、更に使者を送って自害させた。

この時に姪の張氏も夫に殉じている。

諸葛恪の死後、諸葛恪の弟の諸葛喬の子で諸葛攀が陽都侯を継ぐものの早世したという。

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