【生誕地】 益州犍為郡武陽県
【生誕】 不明
【死没】 景元5年(264年)
【字】 伯恭
【主君】 劉禅

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の武将。

益州犍為郡武陽県の人。

字は伯恭。

前漢の張良の子孫。

高祖父は司空の張晧。

曾祖父は広陵太守の張綱。

祖父と父の名は不詳。

子は張微。

孫は張存。

『三国志』蜀志に伝がある。

劉備が益州を平定し(入蜀)、益州牧を兼任したときに書佐として取り立てられた。

その後、孝廉に推挙され、江陽県長・涪陵県令・梓潼太守・広漢太守・蜀郡太守と地方官を歴任した。

この間、沔陽県長であった頃、劉備の漢中攻め(定軍山の戦い)に参加し、趙雲の指揮下で曹操軍を大いに撃退したという(『三国志』蜀志「趙雲伝」の注に引く『趙雲別伝』)。

231年、庲降都督・綏南中郎将として南中方面を鎮守した。

しかし、法に厳格であったために異民族の反発を買い、233年、異民族の劉冑が反乱すると(『三国志』蜀志「後主伝」)、職務に耐えないと見做されて中央に召喚された。

張翼は後任の馬忠が赴任するまで前線に留まり、兵糧の準備など軍備を充実させた。

このため馬忠はそれに頼り、異民族の反乱を平定できた。

諸葛亮はこの話を聞き、張翼に信頼を寄せた。

諸葛亮が武功に進軍したとき、前軍都督となり、扶風太守を兼務した。

諸葛亮の死後、前領軍となり、劉冑討伐の功績が評価され、関内侯に封じられた。

238年には尚書となった。

さらに、督建威・仮節に昇進し、都亭侯・征西大将軍に昇格した。

255年、姜維が北伐を計画すると、これに強く反対したが容れられず、張翼も鎮南大将軍として北伐に従軍した。

姜維は洮水において王経軍を大破した。

しかし、張翼はこれ以上の戦闘継続に反対し、戦果に傷がつかない内に撤退すべきだと述べた。

これに対し姜維は腹を立てたが、張翼はなおも反対を続けた。

結局、姜維は狄道城に籠った王経を包囲したものの、破ることはできなかった。

これ以来、姜維は張翼のことを内心不快に思うようになったが、北伐の際は常に従軍を命じた。

このため、張翼も仕方なくそれに従った。

259年、左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼務した。

263年夏、魏の蜀侵攻が開始された。

張翼は廖化・董厥と共に鍾会軍を迎撃するため陽安関へ向かったが(『三国志』蜀志「後主伝」及び「姜維伝」)、蔣舒の裏切りにより陽安関は陥落してしまった。

このため陰平から敗走してきた姜維と共に、剣閣へ籠って鍾会軍を防いだ。

しかし、剣閣を迂回した鄧艾軍により成都が降伏したため(『三国志』蜀志「後主伝」)、張翼は姜維と共に鍾会へ降伏し、随行して成都に戻った。

翌年正月、姜維と鍾会は鄧艾を罪に落とした上で、魏将を皆殺しにしてクーデターを起こそうとした。

しかし、胡烈ら魏将の反撃に遭って討たれ、張翼もこれに巻き込まれて殺害された。

子の張微は西晋の広漢太守となったが、李特の反乱で力戦のすえ殺害された。

張微の子である張存も捕らえられたが、李特は父の喪を弔うように伝え、張存は釈放された。

陳寿は、張翼が姜維の北伐に反対したことを称えている。

小説『三国志演義』では劉璋配下の武将として登場する。

劉備が入蜀を開始すると、卓膺と共に劉璝らが守る雒城の救援部隊として派遣される。

しかし、張任が捕らえられ卓膺が降伏すると、なおも抵抗しようとする劉璝を殺害して降伏した。

その後は劉備・劉禅に仕え、諸葛亮に従い南征や北伐に参加する。

諸葛亮の没後も主力武将として転戦するが、姜維と不仲になったという描写はない。

最期は、蜀滅亡後の混乱で死去した人物の1人として名が挙がるだけである。

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