【生誕地】 豫州沛国譙県
【生誕】 永寿元年(155年)
【死没】 建安25年1月23日(220年3月15日)
【字】 孟徳
【諡号】 武王→武皇帝
【廟号】 太祖
【主君】 霊帝→少帝弁→献帝

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概要 (説明はWikipediaより)

後漢末期の武将・政治家。

詩人・兵法家としても業績を残した。

字は孟徳、幼名は阿瞞、また吉利。

豫州沛国譙県(現・安徽省亳州市譙城区)の出身。

後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。

廟号は太祖、諡号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。

羅貫中の小説『三国志演義』では敵役・悪役として設定される。

父は曹嵩。

中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。

曹氏の先祖は前漢の丞相であった平陽侯曹参とされる。

また、曹嵩の実家という説がある夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。

もし、曹嵩が夏侯氏の出であれば、彼の挙兵時から従軍した夏侯惇・夏侯淵らは従兄弟にあたることになる。

裴松之が引く『曹瞞伝』及び郭頒の『世語』などによると、曹嵩はもともと夏侯氏であったというが、陳寿は『三国志』の本文では曹操自身は「出自不詳」としている。

なお曹騰には兄が3人おり、長兄・曹褒の孫が曹仁である。

また次兄の子に曹鼎がおり、その孫が曹休・弟の子が曹洪である。

曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。

ただ太尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救うことはできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操を高く評価した。

また、橋玄が紹介した月旦評で有名な後漢の人物鑑定家の許子将(許劭)は、「子治世之能臣亂世之奸雄」(子は治世の能臣、乱世の奸雄(姦雄))または「君清平之奸賊亂世之英雄」(君は清平の奸賊、乱世の英雄)と評した。

曹操は後に橋玄を祀り、かつての恩義に報いた。

20歳のときに孝廉に推挙され、郎となった後、洛陽北部尉・頓丘県令・議郎を歴任した。

洛陽北部尉に着任すると、違反者に対して厳しく取り締まった。

その任期中に、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が門の夜間通行の禁令を犯したので、曹操は彼を捕らえて即座に打ち殺した。

このため法の禁を犯す者は現れなくなり、曹操を疎んじた宦官などは追放を画策するも理由が見つからず、逆に推挙して県令に栄転させることによって洛陽から遠ざけた。

光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉として潁川での討伐戦に向かい、皇甫嵩や朱儁とともに黄巾軍に大勝し、その功績によって済南の相に任命された。

済南では汚職官吏の罷免、淫祠邪教を禁止することによって平穏な統治を実現し、後に東郡太守に任命された。

しかし、赴任を拒否し、病気を理由に故郷に帰った。

若くして隠遁生活を送ることになった曹操だが、その間も文武の鍛錬を怠ることはなかったという。

中平5年(188年)、黄巾の乱平定に功のあった者が選ばれた西園八校尉に任命された。

故郷にいるとき、王芬・許攸・周旌らによる霊帝廃位のクーデター計画に誘われるが、伊尹・霍光、呉楚七国の乱を例に挙げて参加を断った。

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後漢末期の黄巾の乱勃発以前に、朝廷の実権を握り、栄華を欲しいままにしていた10人の宦官(十常侍)を粛清するため、大将軍何進は諸侯へ向けて上洛を呼びかける檄文を飛ばした。

曹操はこの宦官粛清計画を非難している。

曹操の父は大宦官の曹騰の養子であったため、曹操自身も宦官の利点と危険性をよく理解していた。

大義名分を何進の檄文が整えてくれている以上、都に上洛し宦官を排除して天子を補佐することが権力を握るための最短路となった。

中平6年(189年)8月27日、首謀者の何進が段珪に殺されるも、袁紹と袁術が宮殿を攻めて宦官を皆殺しにしたことで、朝廷内に栄華を極めた宦官の時代もついに終焉を迎えた。

しかし、大宦官の曹騰の孫にあたる曹操にとっては、安定して出世することが出来たはずであった未来も、同時に失われたとも言える。

何進の檄文にいち早く反応した董卓が洛陽に上洛、少帝弁を廃して献帝協を立て、朝廷を牛耳った。

董卓は曹操を仲間に引き入れようとするが、董卓の暴虐ぶりを見た曹操は妻子も連れずに洛陽から脱出し、故郷に逃げ帰った(その間卞夫人らは袁術に面倒を見られている)。

この帰郷の際、真偽不詳ながらも有名な逸話が呂伯奢の家族の殺害である。

呂伯奢は曹操の知人で、呂伯奢本人は曹操が立ち寄った際には留守であったという。

王沈の『魏書』では、呂伯奢の息子達による襲撃に対する正当防衛、『世語』では、呂伯奢の息子達の裏切りを心配した曹操の一方的な虐殺、『異同雑語』では、食器を用意する音を曹操殺害の準備と勘違いしたことによる、事故的な過剰防衛としている。

また『異同雑語』では、このとき曹操が「俺が他人に背こうとも、他人が俺に背くのはならぬ」と言ったとされる。

小説『三国志演義』では、この発言を「俺が天下の人間に背こうとも、天下の人間が俺に背くことは許さない」とし、曹操から陳宮が離れて行くことになった切っ掛けとしており、曹操の悪役のイメージを決定付ける逸話になっている。

なお、『三国志』本文には、この逸話の記述はない。

その後、曹操は私財を投じて陳留郡己吾において挙兵した。

『世語』では陳留郡の孝廉である衛茲の援助を受けたとしている。

とはいえ当初の仲間は夏侯惇や夏侯淵、曹洪や曹仁・曹純兄弟といった身内が中心であり、その勢力は小さなものにすぎなかった。

この後も董卓と諸侯の軋轢は進み、東郡太守の橋瑁によって詔勅が偽造され、各地の諸侯に連合を呼びかける檄文が飛ぶに至る。

初平元年(190年)、袁紹を盟主として反董卓連合軍が成立すると、曹操もまた父の曹嵩の援助を受け、親友である袁紹(曹操自身は袁紹を親友だとは思っていなかったという)のもとに駆けつけた。

しかし、董卓打倒を目指して集結したはずの連合軍であったが、諸侯は自らの利益を重視していたために積極的に攻める者はおらず、逆に恐れを抱き董卓の軍を目前にしながら毎日宴会を催し、やがて諸侯は互いに牽制を始めることになる。

董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都したので、曹操は盟主の袁紹に好機だと迫ったが、諸侯の打算により、攻撃命令は下されなかった。

業を煮やした曹操は鮑信や張邈の配下の衛茲とともに董卓を攻撃した。

しかし曹操・鮑信・衛茲の軍は董卓配下の徐栄との交戦により壊滅的な打撃を受け、衛茲は戦死した。

その後、曹操は軍の再編をするために揚州などで徴兵し、兵に反乱を起こされたこともあったが鎮圧し、司隸の河内郡に駐屯した。

董卓が長安に撤退し、孫堅が洛陽を制圧すると、反董卓連合軍は解散した。

初平2年(191年)、黒山軍の反乱をきっかけに曹操は袁紹によって東郡太守任命を上奏された。

この時期、曹操を慕って多くの勇将や策士が彼の下に集まった。

この頃、曹操は胡毋班の遺族とともに王匡を殺害した。

初平3年(192年)春、黒山軍の本拠地を攻め、眭固や匈奴の於夫羅に大勝した。

同年夏4月、董卓が呂布に暗殺された。

また、兗州刺史の劉岱が青州から来た黄巾軍に殺された。

そこで鮑信・万潜らは曹操を迎えて兗州牧を引き受けさせた(朝廷より兗州刺史に任命された金尚は追い返した)。

曹操は黄巾討伐の詔勅を受け、自ら鎧をまとって黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。

これ以降、曹操の実力は大きく上昇した。

袁術の配下の孫堅は豫州刺史であったが、初平2年(191年)頃、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したので、孫堅と孫堅の主である袁術は周喁・周昂・周昕と豫州を奪い合うこととなった。

これにより袁術と袁紹が対立することとなり、それぞれ群雄と盟約を結び対抗した。

袁紹と同盟したのが曹操・劉表・周喁など、袁術と同盟したのが孫堅・公孫瓚・陶謙などである。

袁紹は董卓により擁立された献帝に対抗すべく、劉虞の擁立を計画したが、袁術はこれに反対し、劉虞自身も皇帝になるのを拒否している。

初平4年(193年)頃、袁術は曹操の兗州に攻め込んだ(袁術の侵攻には朝廷により兗州刺史に任命された金尚と馬日磾を伴っていた)。

袁術は公孫瓚に救援を求め、公孫瓚は劉備や徐州牧・陶謙を派遣する。

曹操は袁紹と協力してこれらと当たり、その全てを打ち破った(匤亭の戦い)。

敗れた袁術は、劉表に背後を絶たれ、本拠地の南陽郡を捨て、寿春に落ち延びていった。

この頃、曹操は陶謙に父の曹嵩や弟の曹徳を含めた一族を殺されている。

初平4年(193年)秋、その恨みから復讐戦を行うことを決意し、50万の兵力で徐州に侵攻、陶謙から十数城を奪い、彭城での戦いで陶謙軍に大勝し、数万人を殺した。

『三国志』武帝紀によれば、通過した地域で多数の者を虐殺したという。

このことは後世の『後漢書』によれば、「曹操は数十万人の男女を殺し、曹操の軍の通過した所では、鶏や犬の鳴く声さえ聞こえなくなり、死体のため泗水の流れが堰き止められたと言われるほどの惨状であった」と書かれており、この虐殺に因り曹操は陳宮に背かれている。

興平元年(194年)夏、曹操は再び徐州に侵攻し、通過した地域で多くの人を虐殺した。

ところが、親友の張邈が軍師の陳宮と謀り呂布を迎え入れ反逆したため、領地である兗州の大半は呂布のものとなった。

張邈は呂布が袁紹を見限って去った後に呂布と会い、深い親交を結んだために袁紹に嫉妬されていた。

曹操は袁紹にそのことを言われるたびに張邈を庇っていたが、張邈の方は彼が袁紹との友誼を優先して自分を殺すのではないかと不安になり、裏切ったとされている。

張邈と曹操とは古くからの付き合いで、互いが死んだ時には互いの家族の面倒を見ることを約束するほどの仲だった。

それほどまでに信頼していた人間に裏切られた曹操は、愕然とする。

曹操は兗州に戻り、呂布を攻めたが敗れ、青州兵は大打撃を受けた上に、曹操自身も大火傷を負った。

幸い荀彧や程昱、夏侯惇などが本拠地を守り抜き、蝗害による飢饉が起き、兵糧の尽き果てた呂布が軍を引いたため、曹操は帰還を果たすことができた。

このような時、袁紹が機を見計らったかのように援助を申し入れてくるが、程昱の反対もあり、曹操はそれを断る。

この年の秋、蝗害と旱魃のため穀物の値段は1石50万余銭にもなり、一帯では人が人を食らう状態になっていた。

そんな中、徐州では陶謙が死に、劉備がそれに代わっていた。

興平2年(195年)春、定陶を攻撃。

南城を陥落させられなかったが、折り良く着陣してきた呂布の軍勢を撃破する。

同年夏には鉅野を攻めて薛蘭や李封を撃破し、救援に現れた呂布を敗走させた。

呂布は陳宮ら一万と合流して再度来襲してきたが、この時曹操軍はみな麦刈りに出向いて手薄だったので、曹操は急遽軍勢をかき集めると、伏兵を用いて呂布軍を大破した。

呂布は劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従ったが、曹操は、張邈が弟である張超に家族を預けているのを知ると、張超を攻撃する。

同年秋、根拠地の兗州を全て奪還した曹操は、兗州牧に任命された。

同年冬、張超を破り、張邈の三族(父母・兄弟・養子)を皆殺しにした。

張邈は部下に殺された。

この頃、長安では呂布らを追った李傕らが朝廷の実権を握っていた。

しかし、李傕らは常に内紛を続けていた。

建安元年(196年)1月、荀彧と程昱の勧めに従い、長安から逃げてきた献帝を迎え入れるために、曹洪に献帝を迎えに行かせたが、董承に妨害された。

同年2月、豫州西部の汝南・潁川に割拠していた黄巾賊の黄邵や劉辟・何儀らを破り、建徳将軍に任命された。

同年6月、鎮東将軍に昇進し、費亭侯に封じられた。

同年7月、洛陽に赴き、首都を守護したため、韓暹は逃亡した。

献帝は曹操に仮節鉞を与え、録尚書事とし、司隷校尉も担当させた。

同年9月、董昭の策略を用いて、献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。

献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じた。

同年10月、政敵の楊奉を討伐して、後漢政府から追放したため、楊奉は袁術のもとへ逃走した。

曹操は大将軍を袁紹に譲り、自らは司空・車騎将軍に任命された。

またこの年、曹操は棗祗・韓浩らの意見を採用して、屯田制を開始している。

建安2年(197年)春、宛に張繡を攻めて降伏させた。

この際に曹操は張繡の叔父である張済の未亡人を妾としたが、そのことに張繡が腹を立てていると知って彼の殺害を考えるも、事前にそれを察知した張繡に先制され、敗れる。

この敗戦で流れ矢に当たって右臂に怪我をし、長男の曹昂と弟の子の曹安民と忠臣の典韋を失った。

建安3年(198年)、張繡を穣に包囲した。

劉表が兵を派遣して張繡を助けたので窮地に陥ったが、伏兵を用いて敵軍を挟み撃ちにして散々に撃破した。

同年4月、後漢王朝は裴茂・段煨らを派遣して、李傕を滅ぼした。

同年冬、呂布を攻める。

呂布は下邳城に籠城したが、水攻めによって城兵の士気を挫き、落城させ、豫州東部と徐州を制圧した。

建安4年(199年)、袁紹は公孫瓚を滅ぼし、河北を平定した。

袁術は呂布や曹操に敗北し勢力が衰え、袁紹のもとに身を寄せようとしたが、その途中で病死した。

曹操と河北を制圧した袁紹の対決が必至となると、張繡は再び曹操に降伏し、曹操も過去の恨みを呑んで迎え入れた。

関中には馬騰・韓遂が勢力を保っていたため、曹操は鍾繇を司隷校尉に任じ、関中方面の軍事と統治を任せた。

鍾繇は馬騰・韓遂を説得して、曹操に従わせ、馬騰・韓遂の子供を人質として献帝に参内させた。

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建安5年(200年)、官渡の戦いで最前線に立って最大の敵である袁紹を破り、その勢いを削いだ。

建安7年(202年)、袁紹が病死し、袁氏の勢力は袁紹の息子の袁譚と袁尚に分裂した。

建安9年(204年)、袁尚の本拠である冀州の鄴(現在の河北省邯鄲市臨漳県)を攻め落とし、ここに本拠地を移す。

同年9月、献帝は曹操に冀州牧を担当させたため、曹操は兗州牧を辞退して返上した。

建安10年(205年)、袁譚を滅ぼし、冀州を平定した。

同年、黒山軍の張燕が十数万人の軍勢を率いて降伏してきた。

建安11年(206年)、袁紹の甥の高幹を討伐し、并州を平定した。

建安12年(207年)、袁氏に味方する蹋頓ら烏桓族を討ち、二十数万人を降伏させ、袁紹の子の袁尚・袁煕を滅ぼし、幽州を平定し、河北(黄河の北岸地域)を統一した(白狼山の戦い)。

曹操の勢力は圧倒的なものとなり、残るは荊州の劉表・江東の孫権・益州の劉璋・漢中の張魯・関中の馬騰を筆頭とした群小豪族、寄る辺の無い劉備だけとなった。

建安13年(208年)春正月、三公制を廃止し、丞相と御史大夫を置いた。

同年6月、献帝は曹操を丞相に任命した。

同年秋7月、曹操は15万の軍を南下させ、劉表征討に赴いた。

8月、劉表が病死した。

9月、劉表の子の劉琮は代わって襄陽に駐屯していたが曹操に降伏し、劉備や劉琮は夏口へ逃走した。

曹操は江陵に軍を進めた。

そこで荊州を服従させた功績を判定し、荊州の名士韓嵩や鄧義らを任用した。

また、益州牧劉璋がはじめて兵を提供してきた。

同年12月、長江南岸沿いに進んで孫権を討とうとしたが、孫劉連合軍に敗れた(赤壁の戦い)。

長江北岸に引き上げ、曹操が敗走すると孫劉連合軍に荊州の大部分を奪われた。

建安14年(209年)春3月、曹操は軍を率いて譙に到着した。

秋7月、水路を経て合肥に陣取った。

前年、揚州刺史の劉馥が死去していたため、揚州の郡県に長吏を置き、芍陂に屯田を開設し、軍備を整えた。

12月、曹操は軍を率いて譙に帰還した。

建安16年(211年)、馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。

その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。

赤壁の戦いが終わった後も、曹操軍はその8年間(209年-217年)にわたり、孫権軍と巣湖周辺(合肥・濡須)で攻防戦を繰り広げた。

その間、曹操は家臣の進言を受け入れず、四度も総力をあげた巣湖濡須の戦いで敗れて、大な戦果はなかったため、最終的には全て孫権により撃退された。

建安18年(213年)に董昭らの提案に従い魏公となり、建安21年(216年)に魏王に封じられ、後漢皇帝が治める帝国内の一藩国、つまり王国として魏を建国。

献帝には権力は無く、実際には後漢を背負う曹操だが、最後まで帝位にはつかず後漢の丞相の肩書きで通した。

簒奪の意を問われた曹操は「自分は(周の)文王たればよい(文王は殷(商)の重臣として殷に取って代われる勢力を持っていたが死ぬまで殷に臣従し、殷を滅ぼした子の武王によって「文王」を追号された)」としてその意を示唆したともいう。

建安20年(215年)、漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。

漢中平定後、劉曄と司馬懿は、この勢いに乗じて劉備が支配して間もない益州に侵攻するよう曹操に進言したが、この意見は却下されている。

217年末-219年間、曹操軍はその2年間にわたり、漢中を侵攻した。

建安24年(218年)、曹操は劉備討伐のために長安に入った。

劉備軍が涼州武都まで兵を進めたが曹洪を派遣し呉蘭らを斬り善戦し張飛、馬超らは敗走した。

一方、劉備本隊は陽平関に入り夏侯淵と対峙した。

曹操は漢中の数万の住民を長安に移住させると、さらに一方では翌年に漢中を守備している夏侯淵が兵を割き、わずか400の兵で陣の修復に向かった。

その隙に夏侯淵が黄忠に討ち取られた(定軍山の戦い)。

曹操は自らふたたび漢中まで出向くも、陽安で徐晃が陳式を破るなど劉備との間で持久戦が続いた。

同年5月曹操は漢中を「鶏肋」と形容し、攻略を諦めて撤退を命じ、漢中を劉備が領有した。

また、劉備の配下武将の関羽が曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の配下武将の于禁・龐徳を捕虜とした。

さらに、鄴においては丞相掾の魏諷が関羽に通じて反逆し、さしもの曹操も遷都まで考えるほどであったが司馬懿・蔣済の提案に従い、孫権へ結盟を求め、関羽を破った(樊城の戦い)。

建安25年(220年)、病のため死去。

「戦時であるから喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れてはならず」との遺言を残した。

死後、息子の曹丕が後漢の献帝から禅譲を受け皇帝となると、太祖武帝と追号された。

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