【生誕地】 豫州沛国譙県
【生誕】 174年
【死没】 建安15年(210年)
【字】 子和
【諡号】 威侯
【主君】 曹操

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期の武将。

字は子和。

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。

祖父は曹褒(字は叔興、潁川太守)。

父は曹熾(中国語版)(字は元盛、侍中・長水校尉)。

同母兄は曹仁。

従兄は曹操。

子は曹演。

孫は曹亮。

『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に記述がある。

祖父は、曹操の養祖父曹騰の兄であり、曹操と同族である。

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曹純が14歳のときに父が39歳で死去した。

この時、兄の曹仁が別居していたため、曹純が家を継いだ(『英雄記』)。

曹純は財産をよく管理し、数百人の召使・食客をよく監督したので、郷里の人々に有能だと認められた(『英雄記』)。

また、学問好きで学者を敬愛したため、多くの学者が曹純の下に集まり、人々から賞賛された(『英雄記』)。

曹純は18歳のときに黄門侍郎となり、20歳のときに曹操に仕えた。

襄邑での募兵に同行し、その後も曹操の側に付き従った(『英雄記』)。

議郎・司空軍事に就任した。

曹操は虎豹騎という精鋭騎兵隊を持っていたが、悩んだ末にその指揮官を曹純に任した。

曹純は虎豹騎の指揮官になると、よく部下を可愛がり統率したので、部下からの信望が厚かったという(『魏書』)。

建安10年(205年)、曹純は虎豹騎の指揮を執り、袁譚の籠る南皮の包囲戦に参加した。

袁譚が軍の指揮を執って出撃し、曹操軍が多大な被害を受けると、曹操は撤退しようとした。

しかし曹純は「遠方に遠征しているので、今退けば威光を失うでしょう。敵が勝利につけあがっており、自軍は敗北し慎重になっています。慎重さをもって、つけあがっている者と戦えば必ず勝てるでしょう」と進言した。

曹操はこの意見を尤もだと考え、袁譚を激しく攻め立て敗走させた。

曹純は直属の騎兵を指揮して追撃し、袁譚の首を斬った。

建安12年(207年)、烏桓との戦い(白狼山の戦い)では、曹純の騎馬隊が蹋頓を捕虜にした。

また、前後に亘る功績を認められて高陵亭侯に封じられ、300戸を与えられた。

翌建安13年(208年)、曹操の荊州平定戦にも随行した。

長坂では劉備を追撃し、劉備の2人の娘を初めとして多くの捕虜と輜重を得た。

また、そのまま進撃し江陵を降した。

建安15年(210年)に死去。

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曹操は曹純の死後、曹純ほどの指揮官は得られないとして、虎豹騎を自身で指揮を執る事を決めた。

その後、ついに後任の指揮官が選ばれる事はなかったという(『魏書』)。

曹丕(文帝)の時代に諡号が送られ、威侯とされた。

子は領軍将軍にまでなり、正元年間に平楽郷侯に昇進した。

子が死去すると、孫が跡を継いだ。

小説『三国志演義』では、虎豹騎指揮官としての事跡は描かれていない。

南郡攻防戦で曹仁の部将として登場し、孫権軍の周瑜と戦い大敗している。

また、潼関での馬超との戦いでも曹操に従軍する設定となっている。

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