【生誕地】 豫州沛国譙県
【生誕】 不明
【死没】 建安24年(219年)正月
【字】 妙才
【諡号】 愍侯
【別名】 白地将軍
【主君】 曹操

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期の武将。

字は妙才。

夏侯惇の族弟(遠縁の従弟)にあたる。

正妻は曹操の妻の妹。

甥は夏侯尚。

子は夏侯覇ら。

玄孫(夏侯威の孫娘の子)に東晋の元帝がいる。

『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

軍の拠点間における迅速な移動や、それに基づいた奇襲攻撃、前線型武将の指揮、兵糧監督などの後方支援を得意とした。

その迅速な行軍は「三日で五百里、六日で千里」と称えられた(『魏書』)。

曹操が県の長官に関する事件で罪を受けた時、その身代わりを引き受けた。

その後、曹操に救出され、刑罰を免れることができた。

兗州と豫州が混乱すると、飢饉の中で夏侯淵は自分の幼い子を捨てて、死んだ弟の娘を養育したという(『魏略』)。

曹操が兵を挙げると別部司馬・騎都尉として従い、やがて陳留や潁川の太守に任命された。

袁紹との官渡の戦いの時は行督軍校尉となり、袁紹を破った後は兗州・豫州・徐州の兵糧を監督した。

昌豨が謀反を起こすと、張遼と共にこれを討伐し苦戦したが、張遼が昌豨を説得し降伏させた。

その後、再び昌豨が謀反を起こすと、曹操は于禁・臧覇を鎮圧に派遣したがやはり苦戦した。

夏侯淵は増援として派遣されると、昌豨の陣営10余りを陥落させたため、昌豨は于禁に降伏を申し出てきた。

夏侯淵は帰還後に典軍校尉に任命された。

済南と楽安の黄巾の徐和・司馬倶が反乱を起こし、城を攻撃して県の高官を殺害すると、夏侯淵は臧覇や呂虔と共に(「臧覇伝」「呂虔伝」)泰山・斉・平原の郡兵の指揮を執りこれを攻撃、大いに打ち破り、徐和を斬り諸県を平定、食糧を没収し兵士に配った。

建安14年(209年)、中領軍の史渙が亡くなったため、行領軍に任命された。

曹操が孫権征伐から帰還した時、夏侯淵は諸将を指揮監督して廬江の雷緒を破った。

行征西護軍に任命され、徐晃と共に太原の賊を攻撃し、20余りの屯営を陥落させ、頭目の商曜を斬首し、城砦を破壊した。

建安16年(211年)7月から9月にかけて、反乱を起こした韓遂・馬超らの征伐に従軍し、渭南において戦った(潼関の戦い)。

朱霊と共に、隃麋・汧の氐族を討伐した。

11月、曹操と安定で合流し楊秋を下した。12月、安定から長安に帰還した。

建安17年(212年)1月、曹操は鄴に帰還し、夏侯淵を行護軍将軍として長安に駐屯させた。

夏侯淵は朱霊・路招を率い南山の劉雄を撃破してその兵を降伏させた。さらに張郃・徐晃と共に鄜の梁興を斬り、武都の氐族や夏陽の賊を降伏させた。

再起した馬超が冀城に籠る涼州刺史韋康を攻撃した為、夏侯淵は軍を率い救援に向かったが、到着する前に馬超は韋康を騙して冀城を陥落させていた。

自軍が冀城から200里余りの地点まで迫ったところで馬超が迎撃に来たため、交戦したが敗北し、さらに馬超に呼応して汧の氐族が反乱を起こしたため、軍をまとめて帰還した。

建安19年(214年)、韋康の部下であった趙衢・尹奉らは復讐の為に馬超討伐を計画し、姜叙が西城で挙兵してこれに応じた。

趙衢らは馬超を騙して姜叙攻めに出撃させ、馬超の妻子を殺害した。

馬超は漢中へ脱走したが、張魯に兵を借り、戻ってきて祁山を包囲した。

姜叙らは夏侯淵に助けを求めたが、諸将は曹操の命令を待つべきだと何度も意見した。

しかし夏侯淵は「公のおられる鄴までは往復四千里、返事を待っているうちに姜叙らは敗北してしまうだろう」と言い、出陣した。

夏侯淵は張郃に先行させ、自らは兵糧を監督した。

馬超は数千の氐族と羌族を指揮して迎撃しようとしたが、結局戦わずして逃走した。

張郃は進軍して馬超軍の物資を収容し、諸県を全て下した。

馬超を涼州から駆逐した夏侯淵は韓遂に狙いを定め、顕親に駐屯していた韓遂を攻撃してこれを逃走させ、その兵糧を奪った。

さらに韓遂を追撃し、略陽城に達した。

諸将は韓遂もしくは興国の氐族を攻めるべきと意見したが、夏侯淵は韓遂の兵が精強であり、興国城は堅固であることから、まず長離で韓遂に味方する羌族を攻めることで、韓遂を孤立か野戦の二択に追い込むという作戦を立てた。

夏侯淵は督将を留めて兵糧を守らせ、軽装の歩兵と騎兵のみで長離を攻撃し、火計を仕掛けて非常に多くを斬首・捕獲した。

韓遂軍の羌族はそれぞれ自分の居住地に帰還し、韓遂も長離の救援に駆けつけてきた。

諸将は堀と塹壕を掘って備えるべきと主張したが、夏侯淵は短期決戦に利があると主張し、士気を鼓舞して韓遂を大破し、その旗印を奪い取った。

夏侯淵は一度略陽に帰還し、進軍して興国を包囲した。氐族の王の千万は馬超の元に逃亡し、その部下たちは夏侯淵に降伏した。

夏侯淵は更に高平の屠各を攻撃し、敵を蹴散らして食糧と牛馬を手に入れた。

このように夏侯淵は涼州の馬超・韓遂らの勢力を壊滅させて、涼州を平定した。

仮節を与えられた。

枹罕の宋建は以前から独立勢力を築き、河首平漢王と称していたが、夏侯淵は曹操の命令で枹罕を包囲し、1ヶ月でこれを陥落させ、宋建とその一味を斬った。

張郃に別働隊の指揮を執らせて河関を陥落させ、黄河を渡って小湟中に侵入すると、河西の羌族はことごとく降伏し、隴西は平定された。

長安に帰還すると、武都の氐族・羌族を攻撃し、氐族の食糧を10万石没収した。

曹操が漢中の張魯を征伐すると、夏侯淵は涼州の将軍や侯や王以下の官吏を引き連れ休亭で曹操と合流した。

曹操は羌族と交渉するときは、いつも夏侯淵の名を脅しに使った。

建安20年(215年)、漢中の張魯が曹操に降伏すると行都護将軍に任命され、張郃や徐晃と共に巴中を平定した。

曹操が鄴に帰還すると、征西将軍に任命され、漢中の守備をまかされた。

建安21年(216年)、曹操は宋建らを征伐した功績を称し、夏侯淵の封邑を300戸増加したので、合計800戸となった。

張魯の降伏後、劉備は侵攻して漢中を奪取し、そこを拠点にさらに北上して曹操を滅ぼすという戦略の下、漢中攻撃を開始した。

夏侯淵は指揮下の張郃や徐晃を巧みに繰り出し、劉備軍と一進一退の攻防を数年に渡り続けた。

夏侯淵が指揮を執る兵は甚だ精強であったという。

しかし曹操陣営の中で漢中は遠く孤立しており、やがて巴郡を奪回され、建安23年(218年)には劉備軍が陽安関(陽平関)に達するなど、徐々に追い詰められていった。

建安24年(219年)正月、劉備の部隊はついに定軍山の本営にまで至り、夏侯淵は自らこれと対峙した。

劉備が夜間に攻撃を開始すると、夏侯淵は張郃に東方の陣営を守らせ、自分は南方の陣営を守ったが、張郃が苦戦したため自分の兵の半分を援軍に向かわせた。

劉備は法正の策に従い、夏侯淵の本営より15里離れた鹿角(逆茂木)を焼き払った。

夏侯淵は兵士400人を引き連れて自ら逆茂木の修復にあたったが、黄忠は高所に昇り背後から夏侯淵を攻撃した。

夏侯淵は黄忠の軍を迂回することに成功したが、背後からの攻撃に失敗して戦死した。

張飛の夫人は夏侯淵の戦死を知ると、願い出て彼を埋葬した。

夏侯淵が宋建を斬った際には曹操は「虎の如く関右(潼関の西)を駆け、向かうところ敵無し」とこれを賞賛した。

一方で曹操は、夏侯淵が戦勝していても尚「指揮官には勇気ばかりではなく、時には臆病さも必要で、行動するときは常に知略を用いよ」と、その増長を戒めていた。

夏侯淵戦死の報を受けた曹操は「夏侯淵はもともと戦の駆け引きを得意としておらず、味方から白地将軍と呼ばれていた。

司令官たるもの自ら戦ってはいけないのに、ましてや鹿角(逆茂木)を修繕するとは」と嘆いた。

諡は愍侯。

正始4年(243年)秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。

その中には夏侯淵も含まれている(「斉王紀」)。

小説『三国志演義』では、曹操の親族、夏侯惇の弟として早くから登場し、剛直で弓術に長けた猛将として描写されている。

汝南の劉備攻撃では劉備に味方した黄巾残党の龔都を討ち取っている。

さらに銅雀台落成の余興では、的に当たった4本の矢の真ん中を射抜く腕前を披露した。

曹操は、定軍山での彼の戦死を聞いて嘆き悲しみ、そして鹿角の補修に自ら出かけるなど、軽率な行動に激怒している。

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