【生誕地】 不明
【生誕】 不明
【死没】 226年
【字】 伯仁
【諡号】 悼侯
【主君】 曹操→曹丕

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。

字は伯仁。

魏の宗族の一人。

父の名は不詳。

妻は徳陽郷主(曹真の妹)。

子は夏侯玄・夏侯徽。

伯父(叔父)は夏侯淵。

従父は夏侯惇。

『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

若いころから計略・智謀に優れていたため、曹丕から高く評価され、親友として身分を越えた付き合いをしたという(『魏書』)。

曹操の冀州平定に際して、軍司馬として騎兵を率いて従った。

曹丕が五官中郎将になると、その文学となった。

杜襲は「夏侯尚は人を益しない友人である」と評し、曹操に訴えて夏侯尚を遠ざけようとしたが、曹丕からの寵愛は変わらなかった。

魏国成立時に黄門侍郎となった。

代郡で烏桓が反乱を起こすと、曹彰に従ってこれを征討した。

曹操が洛陽で死去すると、夏侯尚は節を手にし柩を守って鄴に帰還した。

前後の功績を評価されて、平陵亭侯に封じられ、中領軍に任命された。

曹丕の皇帝即位後は平陵郷侯に昇格し、征南将軍・荊州刺史・仮節・都督南方諸軍事となった。

この頃、上庸は蜀の勢力下にあったが、宜都太守の孟達は劉封と対立し、孟達が魏に降伏するという事件が発生していた。

夏侯尚は上庸を奇襲することを提案し、孟達・徐晃と共に劉封と太守申耽らを撃破。

上庸・西城・房陵の3郡9県を魏の版図に収め、征南大将軍に昇進した(蜀志「劉封伝」)。

呉の孫権が曹丕に臣従を申し入れてきた際、夏侯尚はこれを信用せず、呉に対する軍備を怠らなかった。

222年、曹丕が自ら宛に行幸し、呉を三方面から攻めようとすると、夏侯尚は諸軍を統括し曹真・張郃と共に江陵を包囲した。

夏侯尚は呉の諸葛瑾と対峙した。

長江の中州を中心に水陸両軍を展開させた呉軍に対し、夏侯尚は歩騎兵1万を率い下流から密かに長江を渡り夜襲をかけ、併せて敵の水軍を火攻めし、大いにこれを破った。

朱然は江陵城を堅守し(呉志「朱然伝」)、魏軍内で疫病が流行したため、夏侯尚は詔勅により退却せざるを得なかった(『魏志』「董昭伝」)。

帰国後、夏侯尚は仮節鉞となり、荊州牧に昇進し、600戸を加増され1900戸となった。

当時、荊州は荒廃しており、漢水を挟んで呉と国境を接していた上に、異民族も多かったため、ほとんどの住民は江南へ逃げていたが、夏侯尚は上庸から新たに道を通して開発を進め、軍を率いて西方を鎮撫した。

このため、山岳や平地の異民族で降る者が多く、僅かな年数で数千戸の住民が帰順した。

また、孟達と親交を結んだため、夏侯尚の存命中には孟達は魏に叛かなかった。

224年、昌陵郷侯に改封された。

夏侯尚は愛妾がいたため、正妻に目をかけなかった。

正妻は宗室の出身であったため、不快に思った曹丕は人をやって妾を殺させた。

すると夏侯尚は悲嘆のあまり精神を病み、埋葬した愛妾を懐かしがって墓を掘り起こすことまでした。

これを聞いた曹丕は腹を立て「杜襲の言葉はもっともであった」と言ったが、やがて後悔して元通り夏侯尚を厚遇した。

225年、病が重くなり洛陽に帰還した。

226年、曹丕は夏侯尚の病床を何度か見舞って、手を握り流涕した。

しかし間もなく没し、悼侯と諡された。

子の夏侯玄が後を嗣いだ。

また、甥の夏侯奉は夏侯尚の所領のうち300戸を分け与えられ、関内侯を賜った。

曹丕は詔勅を出して夏侯尚の死を惜しみ、征南大将軍・昌陵郷侯の印綬を送ったという(『魏書』)。

243年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。

その中には夏侯尚も含まれている(「斉王紀」)。

小説『三国志演義』では、曹操と劉備の漢中を巡る戦いにおいて、夏侯淵の武将の一人として登場する。

劉備軍の黄忠と戦って捕らえられ、敵将の陳式との捕虜交換時に、背後から黄忠に矢を射られ重傷を負う。

また兄として夏侯徳が登場している。

その後、上庸の孟達が謀反を起こすと史実通りそれを救援し、劉封を撃退している。

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