【生誕地】 琅邪郡陽都県
【生誕】 光和4年(181年)
【死没】 建興12年(234年)
【字】 孔明
【諡号】 忠武侯
【別名】 伏龍、臥龍
【主君】 劉備 → 劉禅

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将(軍師)。

亮は諱で字は孔明こうめい。

司隷校尉諸葛豊の子孫。

泰山郡丞諸葛珪の子。

諡は忠武侯ちゅうぶこう。

蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。

伏龍、臥龍とも呼ばれる。

今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠がある。

妻は黄夫人。

子は蜀漢に仕え綿竹で戦死した諸葛瞻。

孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。

親族として叔父の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。

一族には、魏の武将として仕えた諸葛誕などがいる。

徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が出生地。

本貫も同地である。

身長は8尺。

その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊。

父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。

年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾(異母兄説がある)、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。

まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。

この時の行き先について『三国志』本伝では、叔父の諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後、劉表の元に身を寄せたとなっている。

これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。

その後、諸葛亮は荊州で弟と共に晴耕雨読の生活に入り、好んで『梁父吟』を歌っていたという。

この時期には自らを管仲・楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平(太尉・崔烈の子、崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていたという。

この時期の他の学友に石韜や孟建がいる。

また、この時期に地元の名士の黄承彦の娘を娶ったようである。

これは裴松之注に引く『襄陽記』に見える話で、黄承彦は「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。

周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。

これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。

妻の父の黄承彦の妻は襄陽の豪族蔡瑁の長姉であり、蔡瑁の次姉は劉表の妻であるため、蔡瑁・劉表は義理の叔父に当たる。

また、諸葛亮の長姉は房陵太守蒯祺の妻、次姉は龐徳公の息子の妻であり、龐徳公の甥の龐統も親戚である。

華北ではこの頃、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。

劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。

諸葛亮は晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。

人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び(207年冬~208年春)、やっと迎えることができた。

これが「三顧の礼」である。

この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を故事に習って示し、「曹操・孫権と当たることを避けて、まずは荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだ」と勧めた。

これを聞いた劉備は諸葛亮の見識を認め、諸葛亮を軍師中郎将左将軍府事に任じた、また諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。

これを「孔明の出廬」という。

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建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、長男の劉琦は命すら危ぶまれていた。

劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。

そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で梯子を取り外して、諸葛亮に助言を求めた。

観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。

劉琦はこれに従い、その頃ちょうど太守の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省東部)へ赴任する事にした。

劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。

同年、劉表が死去。

その後を予定通り劉琮が継ぐ。

諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できると勧めたが、劉備はこれに難色を示す。

まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。

劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。

孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。

諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。

この際、孫権から「劉備殿はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」と問われ、諸葛亮は「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして我が主・劉玄徳は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。何故曹操の下につく事などできましょうか」と答えた。

その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域で対決し、勝利した(赤壁の戦い)。

戦後、劉備たちは荊州南部の4郡を占領した。

4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。

この頃、諸葛亮と並び称された龐統が劉備陣営に加わった。

建安16年(211年)、益州の劉璋より、五斗米道の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。

しかし、その使者の法正は張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。

劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。

劉備は龐統、黄忠、法正らを連れて益州を攻撃した。

諸葛亮は張飛、趙雲、劉封らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定。

諸葛亮らは戦うところ全てで勝利した(『三国志』劉封伝)。

郡県の平定を終えると劉備と合流し共に成都を包囲した(劉備の入蜀)。

建安19年(214年)に益州が平定されると、諸葛亮は軍師将軍・署左将軍府事となる。

劉備が外征に出る際には常に成都を守り、兵站を支えた。

また法正、劉巴、李厳、伊籍とともに蜀の法律である蜀科を制定した。

その後、劉備は曹操に勝利して漢中を領有したが、荊州が孫権に奪われ、荊州の留守をしていた関羽が捕らえられ、斬殺された。

劉備の養子である劉封が孟達、申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかった事と、孟達の軍楽隊を没収した事を責めた。

諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備の死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。

劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。

建安25年(220年)には曹操が死去した。

その年、曹操の子 曹丕が遂に後漢の献帝より禅譲を受けて、魏王朝を建てた。

一方、劉備は後漢の献帝が殺害されたとの報に触れ、翌年成都で漢を継ぐことを宣言し、皇帝に即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相・録尚書事となった。

劉備が呉へ進軍を計画し、この戦いの準備段階で張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。

この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は和睦を行おうとしたが、劉備はそれを聞かず、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった(夷陵の戦い)。

この戦いの後、諸葛亮は「法孝直が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。例え東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた。

劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で章武3年(223年)に崩御した。

崩御にあたり劉備は諸葛亮に対して「そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子(劉禅)が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」と李厳と共に事後を託した。

これに対し、諸葛亮は、涙を流して股肱の臣下としての忠誠を誓った。

また、劉備は死に際して諸葛亮に向かい「馬謖は言葉だけで実力が伴わないから重要な仕事を任せてはいけない」と言い残した(「馬謖伝」)。

劉禅が帝位に即くと、諸葛亮は武郷侯、開府治事、益州刺史を兼ね、政治の全権を担った。

諸葛亮は農業生産を積極的に開発し、農家の負担を可能な限り減らすようにして秦の時代に築かれた水利施設を再構築した。

諸葛亮は「孫権が劉備の死を聞けば、おそらく異心を抱くだろう」と深く心配していたが、鄧芝を派遣して孫権との友好関係を整え、孫権は魏との関係を絶って蜀と同盟し、張温を派遣して返礼させた。

さらに、魏に対する北伐を企図する。

魏は、諸葛亮が実権を握ったのを見て、華歆、王朗、陳羣、許芝のほか同族の諸葛璋ら高官が相次いで降伏勧告の手紙を送りつけたが、諸葛亮は返事を出さず後に『正議』を発表して彼らを批判した。

劉備の没後、益州南部で雍闓・高定らが反乱を起こしていたが、諸葛亮は建興3年(225年)に益州南部四郡をことごとく平定した(南征)。

この地方の異民族に漢代を通じて始めて税を課す事に成功して財物を軍事に充て、蜀の財政は大いに潤った。

この時、七縦七擒の故事があったといわれるが、本伝には見えない。

12月に諸葛亮が成都に帰還すると、南蛮は再び反乱を起こし、雲南太守の呂凱が反乱軍に殺害されたため、李恢が兵を率いて反乱を鎮圧した。

その後、建興9年(231年)に死去した李恢の後任として張翼が赴任するが、建興11年(233年)には南夷の豪帥であった劉冑が反乱を起こしたため、朝廷は張翼を召還して馬忠を派遣し反乱を平定させている。

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建興5年(227年)、諸葛亮は北伐を決行する。

北伐にあたり上奏した『出師表』は名文として有名であり「これを読んで泣かない者は不忠の人に違いない」(『文章軌範』の評語)と称賛された。

同年に待望の実子、諸葛瞻を儲けた。

北伐に幕僚として従軍し、諸葛亮から高く評価された楊顒は諸葛亮が自ら帳簿の確認を行っているの見て、その働きすぎを治国のあるべき姿である礼制を一家のあり方に例え、前漢の宰相である丙吉・陳平の故事を引いて諌めた。

諸葛亮は彼の忠告に陳謝した。

後に楊顒は東曹属となって官吏の推挙を担当した。

楊顒が亡くなると、諸葛亮はその死を痛み三日間にわたって涙を流した。

諸葛亮は留府長史の張裔・蔣琬に手紙を送った際に、同時期に亡くなった西曹令史の頼広とともに、その死は朝廷の重大な損失であると書き記している。

魏を攻める前年、諸葛亮は、以前に魏へ降伏した新城太守の孟達を再び蜀陣営に引き込もうとした。

孟達は魏に降った後、曹丕に重用されていたが、建興4年(226年)の曹丕の死後は立場を失い、危うい状況にあった。

諸葛亮はこれを知ると孟達に手紙を送り、孟達の方も返書を出した。

さらに申儀の讒言や司馬懿の疑惑を恐れた孟達は、魏に反乱を起こそうとした。

しかし孟達は司馬懿の急襲を受けて討ち取られた。

建興6年(228年)春、諸葛亮は漢中より魏へ侵攻した。

魏延は、自らが別働隊の兵1万を率い、諸葛亮の本隊と潼関で合流する作戦を提案したが、諸葛亮はこれを許可しなかった。

魏延はその後も北伐の度にこの作戦を提案するが、いずれも諸葛亮により退けられている。

諸葛亮は宿将の趙雲をおとりに使って、郿を攻撃すると宣伝し、曹真がそちらに向かった隙を突いて、魏の西方の領地に進軍した。

この動きに南安・天水・安定の3郡(いずれも現在の甘粛省)は蜀に寝返り関中、魏の朝廷は恐慌した。

さらに隴西まで進出したが隴西太守の游楚は抵抗するとここではすぐに軍を引いた。

これに対して魏の明帝曹叡は張郃を派遣したが、諸葛亮は戦略上の要地である街亭の守備に、かねてから才能を評価していた馬謖を任命していた。

しかし馬謖は諸葛亮の指示に背き行動は妥当性を欠いていた。

配下の王平の諫言も無視して山上に布陣し、張郃により山の下を包囲され、水の供給源を断たれて敗北した。

趙雲も曹真に敗北し、曹真と張郃は3郡奪回へ進軍した。

進路の確保に失敗した蜀軍は、全軍撤退を余儀なくされた(街亭の戦い)。

撤退時に諸葛亮は西県を制圧して1000余家を蜀に移住させた。

撤退後、諸葛亮は馬謖らを処刑したほか(「泣いて馬謖を斬る」の故事)、趙雲を降格し、また馬謖の逃亡を黙認した向朗を免職にした。

自らも位を3階級下げて右将軍になったが、引き続き丞相の職務を執行した。

李邈は諸葛亮を諫めて「春秋時代に秦は敗軍の将・孟明視(中国語版)を赦したおかげで西戎を制圧でき、楚は子玉を誅殺したため二代にわたって振るわなかったのです」と述べて、諸葛亮の機嫌を損ね、蜀に帰還した。

同年冬、諸葛亮は再び北伐を決行する。

その際『後出師表』を上奏したとされるが、これについては偽作説が有力である。

2度目の北伐では陳倉城を攻囲したが、曹真が侵攻路を想定して城の強化を行わせていた事や、守将の郝昭の奮戦により、20日余りの包囲した後、食糧不足により撤退した。

撤退時に追撃してきた魏将王双を破り討ち取っている(陳倉の戦い)。

建興7年(229年)春、第3次の北伐を決行し、武将の陳式に武都・陰平の両郡を攻撃させた。

雍州刺史の郭淮が救援に向かうが、諸葛亮が退路を断つ動きを見せると撤退したため、陳式は無事に武都・陰平の2郡を平定した(陳倉の戦い)。

この功績により、再び丞相の地位に復帰した。

建興8年(230年、魏の曹真らが漢中に攻め寄せるも大雨によって魏軍の進軍が滞った事もありこれを撃退する(子午の役)と、これに乗じた諸葛亮は西に軍を進め魏延、呉懿を羌中へ向かわせ、陽谿で魏の費耀・郭淮を大いに打ち破った。

建興9年(231年)春2月、諸葛亮ら蜀軍は第4次の北伐を行った。

魏の祁山を包囲すると別働隊を北方に派遣し、諸葛亮は自ら郭淮らと対峙し撃退したが、張郃ら魏軍が略陽まで進軍してくると、祁山まで後退した。

司馬懿が指揮を執る魏軍は祁山を解放するために、司馬懿が諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、撃退された。

蜀軍は局地的には勝利したものの長雨が続き悪天候の食糧輸送を嫌った李厳が撤退を進言したため軍を引いた。

撤退時に、司馬懿に追撃を命じられた張郃を伏兵を用いて射殺している(祁山の戦い)。

食糧輸送を監督していた李平(李厳から改名)は、糧秣の不足を伝えて諸葛亮を呼び戻させる一方、軍が帰還すると「食料は足りているのになぜ退却したのだろうか」と驚いたふりをして責任転嫁を図ろうとした。

しかし諸葛亮は出征前後の手紙を提出して李平の矛盾を糺したため、李平は自分の罪を明らかにした。

そこで自分と共に事後を託された彼を庶民にいきなり落として流罪にした。

李平は諸葛亮に次ぐ地位にあったため、政治・軍事の重圧は諸葛亮に集中することになった。

建興12年(234年)春2月、第5次の最後の北伐を行った。

諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。

しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹して諸葛亮の挑発に乗らなかった。

諸葛亮は病に倒れ、秋8月陣中に没した(五丈原の戦い)。

享年54。

諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。

この時、司馬懿は追撃を仕掛けたが蜀軍が反攻の構えを見せるとすぐに撤退した。

この事から当地の民衆は死せる諸葛、生ける仲達を走らす(「死諸葛走生仲達」)と言い合った。

魏延は楊儀の指揮下に入る事を拒否して争いを起こしたが、結局は楊儀に殺された。

蜀軍が撤退した後、司馬懿はその陣地の跡を検分し「彼こそ天下の奇才だ」と驚嘆した。

小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである。

『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。

この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。

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