【生誕地】 徐州琅邪郡陽都県
【生誕】 熹平3年(174年)
【死没】 赤烏4年(241年)
【字】 子瑜
【別名】 諸葛使君
【主君】 孫権

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の呉の武将・政治家。

字は子瑜。

徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)の出身。

諸葛亮の兄に当たる。

子は諸葛恪・諸葛喬・諸葛融・張承妻。

後漢名門の琅邪郡諸葛氏の生まれであり、若い頃に首都に出て、『毛詩』・『尚書』・『左氏春秋』などを読み学問を修め、実母が死ぬと継母に孝養を尽くしたという。

後漢末の戦乱を避けて揚州に移り住んだ。

この頃孫策が亡くなり孫権が跡を継いだ頃で、孫権の姉婿である曲阿の弘咨は諸葛瑾の非凡さを見抜き、諸葛瑾を孫権に推挙した。

孫権の諸葛瑾への評価は高く、魯粛と同じく賓客として遇され、後に長史・中司馬とされた。

建安6年(201年)、諸葛瑾は歩騭・厳畯と倶に呉中に游び、共に声名を著わし、当時の英俊とされた。

劉備の使者として弟が都を訪問した時、孫権に諸葛亮を説得して仕えさせられないかと言われると、「私が我が国と主君を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と言ったという。

孫権はこの言葉に感銘を受け、その後、諸葛瑾に絶大な信頼を示すようになったという。

建安20年(215年)、劉備が益州を手に入れたのに伴い、荊州返還を要求する孫権の使者となる。

この時、劉備に仕えた弟とは公私の立場をはっきり区別し、公式の場で顔を合わせても、私的に面会する事はなかった。

この時は劉備が「涼州を手に入れたらお返しする」と返答したため、返還が実現せずに失敗している。

このため、孫権が南部三郡に長吏を置いたところ関羽が追い払ってしまった。

孫権は呂蒙に荊州を奪返させ、魯粛も巴丘で関羽を食い止める。

しかし曹操が漢中を平定したことにより、これを恐れた劉備から和解が申し込まれ、諸葛瑾は友好関係確認のため、再び使者として益州に赴いた。

建安24年(219年)、関羽討伐に参加して功績を挙げると、綏南将軍となり、宣城侯に封じられた。

呂蒙の死後は南郡太守となり、劉備が東征の軍を進めると、呉蜀講和のために劉備に書簡を寄せている。

諸葛瑾は、劉備の報復に対する気持ちを推察し、主次と利害を説いたものの、劉備には受け入れられなかった。

諸葛亮の兄ということで内通を疑われたが、陸遜はそのようなことはないとしつつも、孫権に判断を任せるため使者を送った。

孫権は「子瑜が私を裏切らないのは、私が子瑜を裏切らないのと同じだ」と言い、先の諸葛亮との関係を述べた発言を引いて、再び絶大な信頼を示して陸遜にもそのつもりでいるよういい含めたという。

結局、劉備は諸葛瑾の忠告を受け入れず、呉への侵攻したものの大敗した(夷陵の戦い)。

黄武元年(222年)、夷陵の戦いの直後に魏との関係が悪化し、曹真と夏侯尚の大軍に江陵の朱然が包囲されると(江陵の戦い)、後方で孫権は全体指揮を取った。

諸葛瑾は孫権の命で潘璋と江陵救援に駆けつけた。

諸葛瑾は軍を分割して長江の中州に軍を進めたが、夏侯尚の火計に撃破された。

諸葛瑾は推理によって作戦計画を立て、曹真や夏侯尚に一進一退で戦い続けた。

孫権は、諸葛瑾の用兵が臨機応変さを欠くものであったため、当初は不満を持ったが、後に浮橋に攻撃をかけて魏軍を撤退に追い込むと、兵力を失わなかったことを賞したという、国土を守る手柄を立てた。

この功績により左将軍に昇進し公安督となり、宛陵侯に封じられた。

黄武5年(226年)、孫権の江夏攻撃に連動して、張覇とともに襄陽に侵攻したが、魏の司馬懿に敗れ張覇は斬られた。

呉蜀の同盟関係が復活した後は、弟とも連絡は取り合う関係になっていたようで、長らく子がいなかった弟のために、次男の諸葛喬を弟諸葛亮の養子として蜀に送り込んでいる。

蜀の建興5年(227年)諸葛亮に実子の諸葛瞻が誕生し、この年の出陣の直前、弟から実子の成長を心待ちにする内容の手紙をもらっている。

黄龍元年(229年)、孫権が皇帝を号すると大将軍に任じられ、左都護・豫州牧を兼任した。

嘉禾3年(234年)には三方面攻略を期した孫権は諸葛亮と連絡して共に北伐を行い、孫権の命令で、陸遜と共に襄陽に進軍している。

作戦の途中で、連絡の使者が敵に捕らえられるという事件が勃発したため、諸葛瑾は動揺し、陸遜に撤退すべきではないかと意見を求めたが、陸遜はすぐには返事をせず、ただ泰然自若としていた。

諸葛瑾は陸遜には考えがあるのだと察した。

諸葛瑾が陸遜の元を訪れると、陸遜が冷静に退却策を示したため諸葛瑾はそれに従い、損害を出さずに撤退することに成功した。

陸遜と諸葛瑾は襄陽から撤退の途上、白囲まで来たところで、表向きは狩猟をすると偽って奇襲の準備をし、将軍の張梁と周峻に命じて江夏の新市・安陸・石陽を急襲させ、魏軍千余人を斬った。

特に石陽の人々は油断していたため、動揺した魏の将は城内に避難しようと殺到する多くの民を殺害した上でやっとのことで城門を閉ざすことが出来た有り様であった。

陸遜と諸葛瑾らは生存者を捕虜にして、江夏郡の安陸・石陽城を攻め落とした。

酷吏である呂壱が台頭すると、官僚たちの不正を糾弾し、恐れられた。

孫権は後に過ちに気づき陳謝し、重臣達に向けて国政に対する意見を求めた。

諸葛瑾等は自分は武官なので国政のことはわからない。

孫権が詔勅による彼等を責めたため、諸葛瑾は具体的に回答を示した。

黄龍元年(229年)に孫権が皇帝を号すると周瑜の次男である周胤を都郷侯に封じられた。

その後数年間周胤は、何度も淫乱にふけり無法を働いたため、罪を得て流刑になる。

赤烏2年(239年)、諸葛瑾と歩騭は連名で上奏し、周瑜のかつての功績に免じて周胤の罪を許すよう求めた。

この後、朱然と全琮もこれに同調し、同じ内容の上陳をしたため、孫権は周胤を赦免することを認めたが、まもなく周胤が病没したという。

赤烏4年(241年)の夏4月、孫権が魏に大規模な攻勢をかけた時(芍陂の役)、全琮や朱然の率いた軍が芍陂・樊城を攻め、一方で諸葛瑾や歩騭も荊州方面に軍を展開させ、魏呉の緩衝地域である柤中を占領し、柤中の資源を奪い取った。

5月に皇太子である孫登が死去するという大事件が起こっており、6月に戦果を挙げた呉軍が撤兵し、諸葛瑾も損害を出さずに一斉に撤兵した。

同月閏6月に、諸葛瑾は病没した。

68歳であった。

白木の棺に普段着のままで埋葬し、葬儀は質素にするよう遺言したという。

小説では、謀略と観察眼を兼備する知将として描かれている。

また正史では孫権の姉婿である弘咨という人物に才を見出され、諸葛瑾と魯粛が同時に孫権に起用されたことが記録されているが、三国志演義では魯粛によって推挙された設定となっている。

合肥の戦いでは、張遼による待ち伏せ攻撃であると見抜いた諸葛瑾の忠告を太史慈が聞き入れなかったために、敵の待ち伏せに当たった。

荊州の領有などを巡っては、孫権の使者として劉備や関羽との交渉に当たった。

後に曹操の使者が呉を訪れたとき、荊州の関羽を同盟で攻撃することを孫権に要請したが、孫権がこれへの対応について臣下に諮ると、諸葛瑾は「関羽は荊州出身の女子を娶り、妻との間に最初に息子を授かり、後に娘を授かりました。しかしその娘はまだ幼く、婚約者もおりません。主君の若君の縁組を結んでくるので、関羽が承知すれば曹操を破り、承知しなければ曹操と結ぶのがよいでしょう」と婚姻による謀略を進言した。

孫権はこの謀略を受け入れ、諸葛瑾を荊州へ使者として遣わした。

荊州奪還戦に参加して、麦城の戦いで関羽に降伏を勧告した。

諸葛瑾が蜀に赴いた時に、張昭に離反を疑われる。

夷陵の戦いの直後、曹丕が三方面から呉を攻めた際、江陵の城外で曹真と夏侯尚の軍勢を城内の陸遜(正史では朱然)と共に挟撃して撃退した。

石亭の戦いでは、孫権の謀略で曹叡が三方面から呉を攻めた際、陸遜は諸葛瑾を任命して江陵方面の司令官とし、魏の司馬懿と戦った(正史では孫権は朱然を任命して江陵方面の守備とし、諸葛瑾を公安方面の督軍に当たらせた)。

結局曹休の大敗による司馬懿は城を攻め落れず、撤退した。

呉軍は大勝利を収めて、自身も江陵方面を守り、その功績を残した。

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