【生誕地】 荊州南陽郡
【生誕】 不明
【死没】 建安25年7月(220年8月)
【字】 漢升
【諡号】 剛侯
【主君】 劉表→劉琮→曹操→劉備

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。

字は漢升(かんしょう)。

荊州南陽郡の人。

子は黄叙。

劉備に仕え、益州や漢中の攻略等で活躍した。

劉表に仕え、中郎将に任じられた。

また、劉表の従子である劉磐と共に、長沙郡の攸県の守備の任についていた。

しかし劉表が亡くなり、曹操が荊州を降伏させた後は、曹操より仮の裨将軍に任じられ、職務はそのままで長沙太守であった韓玄の配下についた。

赤壁の戦いの後に、劉備が荊州南四郡を平定すると、黄忠は劉備に帰順して仕えた。

その後は劉備に従い益州に入り、劉備軍の一将として劉璋を攻撃し、常に先駆けて敵の陣地を攻め落とすなど、その勇猛さは軍の中でも鳴り響いた(劉備の入蜀)。

益州平定後、討虜将軍に任命された。

建安24年(219年)春、劉備が漢中攻めを行なうと、曹操配下で関中方面の総司令官であった夏侯淵と、定軍山において対峙し戦った。

曹操配下として、勇猛果敢であると名を知られていた夏侯淵であったが、法正の指示を受けた黄忠は率先して、軍を率いて背後から夏侯淵に襲いかかり、これを討ち取って大勝利を収めた(定軍山の戦い)。

これを受け、劉備は漢中を平定し漢中王となった。

この功績で黄忠は征西将軍に昇進した。

同年秋、劉備が漢中王になると黄忠を後将軍に任命しようとしたが、諸葛亮は「張飛殿・馬超殿らは彼の活躍を見ているので文句は言わないでしょうが、(荊州に残った)関羽将軍はそのことを知らないので、納得しないでしょう」と進言した。

だが劉備は、関羽の説得は自分がすると言って、黄忠を後将軍に任命し、関内侯の爵位を与えた。

後日、やはり諸葛亮の不安が的中し、関羽は黄忠を「老兵」と侮って同列の前将軍になることを拒否したが、費詩の説得で前将軍に就任した。

翌年(220年)亡くなった。

子が早世していたため、彼の家は断絶した。

景耀3年(260年)に剛侯の諡を送られた。

なお、同じ巻に纏められた関羽・張飛・馬超・趙雲ら四人と比べても黄忠伝は記述が少なく、裴松之による注釈も無い。

他に彼の人柄を表す資料として、『三国志』蜀書の末尾に記載されている『季漢輔臣賛』の9番目に名前があり、「義に厚い壮士」であったとされている。

陳寿は、趙雲と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰、夏侯嬰に比している。

小説『三国志演義』では、60歳を過ぎた老将でありながら、弓の名手としてその腕前を披露する姿が描かれ、敵将を一騎討ちで討ち取る場面も多い。

老いるともなお勇猛果敢な活躍を見せている。五虎大将軍の一人と位置付けられている。

関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると、韓玄配下としてこれに応戦する。

その際、関羽との一騎討ちで互角に戦うが、馬が躓き危うく討ち取られそうになる。

関羽は黄忠の武勇を認め「貴殿のお命しばし預けた。早く馬を換えて戦いに戻られよ」と言い、これを見逃している。

これに恩義を感じた黄忠は再戦時に、関羽の兜の緒に矢を命中させる事で、関羽の命を奪うことなく撤退させるが、韓玄に敵軍に内応しているのではと疑われ、捕縛され処刑されそうになる。

しかし、魏延の反乱で韓玄が死亡すると、劉備に仕えることになる。

漢中攻略時には、同じく老将である設定の厳顔とコンビを組み、張郃・夏侯尚らを破り、自分を兄の仇と狙う韓玄の弟である設定の韓浩を討ち取っている。

その後は定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中平定後に五虎大将軍の一人とされるのである。

関羽が黄忠を老将と侮り、同列扱いされるのを嫌うのは史実通りである。

また史実では220年に亡くなっているが、『演義』では夷陵の戦いにも参加している。

その最中、劉備が関興・張苞といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で呉の潘璋の陣へと斬り込んでいる。

しかし最後は馬忠の矢にあたり、それが元で死亡してしまう。

現在の中国では、老いて益々盛んな人を、演義の中で描写された黄忠のイメージから指して「老黄忠」と呼ぶ様になっている。

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