【生誕地】 河東郡解県
【生誕】 不明
【死没】 建安24年12月初旬(220年1月)
【字】 雲長
【諡号】 壮繆侯/忠義侯
【別名】 髯殿、協天大帝関聖帝君、伽藍菩薩、文衡聖帝
【主君】 劉備

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概要 (説明はWikipediaより)

中国後漢末期の武将。

字は雲長(うんちょう)。

もとの字は長生。

司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。

子は関平・関興。

孫は関統・関彝。

蜀漢の創始者である劉備への忠義を貫き、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は曹操など同時代の多くの人から称賛された。

後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。

諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた。

死後、後世の人々に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。

小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長あるいは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。

三国志正史によると身長は9尺[要出典]で見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、諸葛亮からは「髯(ひげ)殿」と呼ばれ、『三国志演義』などでは「美髯公(びぜんこう)」などとも呼ばれる。

出身の司隷河東郡から幽州涿郡に出奔。

黄巾の乱に際し同地で劉備が旗揚げすると、張飛と共に彼の護衛官を務め、簡雍・田豫らと各地を転戦した。

劉備が平原の相になると、関羽は張飛と共に別部司馬に任命された。

劉備は関羽・張飛に兄弟のように恩愛をかけ、張飛は関羽が年長者であることから兄のように従ったという。

関羽・張飛は他人の前では、あくまで劉備を主君として立て、仕えた。

徐州を得た劉備は呂布と争い曹操を頼って逃れた。

建安3年(198年)、曹操が呂布を破った時に関羽は張飛と共に戦功を認められ、曹操から中郎将に任命された(『華陽国志』劉先主志)。

この時に関羽は呂布の部将の秦宜禄の妻を娶る事を曹操に願い出たが、秦宜禄の妻を見た曹操は自分の側室としてしまった(『蜀記』)。

建安4年(199年)、劉備は献帝から密命を受けた董承と結び曹操に叛旗を起こし徐州刺史の車冑を殺害し、徐州を占拠した。

この時に張飛は劉備と共に小沛に戻り、関羽は下邳の守備を任され太守の事務を代行した。

建安5年(200年)、劉備が東征してきた曹操の攻撃を受けて敗れ、下邳に撤退せず北上し袁紹の元に逃げると関羽は夏侯博や劉備の妻子と共に曹操に捕らわれた。

曹操は献帝を庇護しており、献帝の下にあった。

関羽は劉備の元へ帰るまでの期間「漢王朝(献帝)に降る」という名目の上で、曹操に降伏するのではなく一時的な賓客となり、漢王朝より偏将軍に任命された。

官渡の戦い(漢王朝(曹操側)と袁紹の戦争)に関羽も漢王朝側の武将として参加し、関羽は呂布の降将の張遼と共に白馬県を攻撃していた袁紹の将の顔良の攻撃を命じられた。

関羽は顔良の旗印と車蓋を見ると、馬に鞭打って突撃し顔良を刺殺し、その首を持ち帰った。

この時、袁紹軍の諸将で相手になる者はいなかったという(白馬の戦い)。

曹操は即刻上表して、漢寿亭侯に封じた。

曹操は関羽の人柄と武勇を高く評価していたが、関羽が自分に正式に降伏する心算は無いと思い、張遼に依頼して関羽に質問させたが、関羽は劉備を裏切ることは無い事と、曹操への恩返しが済んだら立ち去る心算である事を述べた。

そのことを張遼から聞いていた曹操は関羽の義心に感心したという。

顔良を討ち取るという功を立てた関羽は必ずや劉備の元に戻ると曹操は考え、関羽に重い恩賞を与えた。

関羽はこれらの賜り物に封をし、曹操に手紙を捧げて別れを告げ、袁紹に身を寄せた劉備の元へ去った。

曹操はその義に感嘆し、関羽を追いかけようとする部下に対し、彼を追ってはならないと言い聞かせた。

その後関羽は劉備と再会し、劉備の元へ帰った。

劉備が袁紹の元を去って荊州の劉表の元に身を寄せると、関羽も同行した。

建安13年(208年)、劉備が襄陽の名士の諸葛亮を三顧の礼で迎え重用するようになると、張飛と共に不満を覚えたが、劉備は自分と諸葛亮との関係は、魚が水を欲するようなものである(水魚の交わり)と述べたという(『三国志』蜀志「諸葛亮伝」)。

同年、劉表が病死し曹操が荊州に侵攻すると、樊の地より南下して江陵を目指した劉備の指示で数百隻の船団からなる別働隊の指揮を執った。

途中、長坂の当陽で曹操軍の追撃を受けた劉備は敗北し漢津に逃れ、関羽の船団と合流し難を逃れ、共に夏口に向かった(長坂の戦い)。

魯粛、諸葛亮を介して孫権が劉備に援軍を出すと、劉備・孫権軍は赤壁で曹操軍を破り、曹操は荊州制圧を諦めて撤退した(赤壁の戦い)。

建安14年(209年)、荊州の南郡攻防戦では北道を封鎖したが、李通が手勢を率いてこれを攻撃し曹仁を救い出した。

また、漢津で徐晃と満寵の攻撃を受けた(『三国志』魏志「徐晃伝」)。

劉備は江南の諸郡を平定すると、関羽のそれまでの功績を評価し、襄陽太守・盪寇将軍に任命した。

関羽は長江の北の守備を任された。

劉備が益州に入ると(劉備の入蜀)、関羽は諸葛亮と共に荊州の守備を任された。

後に劉備が益州を攻撃すると諸葛亮は張飛・趙雲らと益州入りし、荊州の留守は関羽が預かることとなった。

この頃、襄陽に駐屯していた曹操配下の楽進と襄陽郊外の青泥まで進出して対峙してたがその攻撃をうけて蘇非と共に逃走している。

このとき文聘が関羽の輜重、軍船を焼いている(『三国志』蜀志「先主伝」、魏志「楽進伝」「文聘伝」)。

荊州刺史の傅羣の主簿の楊儀が降ってくると、関羽は楊儀を功曹に任命して、劉備の元に使者として派遣している(『三国志』蜀志「楊儀伝」)。

劉備が益州を征服すると関羽の功績は張飛・諸葛亮と同等と評価され(『三国志』蜀志「張飛伝」)、関羽は荊州の軍事総督に任命された。

しかし同僚の糜芳・士仁とは関羽が両者を軽んじていたことから隙があった。

また州の事務を一任された荊州治中の潘濬とは親交を結ぶことはなかった (『季漢輔臣賛』、『三国志』呉志「潘濬伝」)。

建安20年(215年)、荊州領有を巡る争いが解決しないことに業を煮やした孫権の命令で呂蒙らが長沙・桂陽・零陵の三郡を襲撃すると、呂蒙の謀略により郝普は呉に降伏した。

それをうけて関羽は3万の兵を指揮して益陽に布陣。

劉備も自ら大軍の指揮を執って関羽の助勢に駆けつけ、一時は劉・孫同盟の崩壊の危機に至った(『三国志』蜀志「先主伝」)。

だが、関羽と通じた長沙郡の安成・攸・茶陵の三県と、揚州廬陵郡の永新県の官吏らが桂陽の陰山城で謀反を起こし、長沙郡の安成県令の呉碭と中郎将の袁龍が関羽と機略を通じ再び反乱を起こした(『三国志』呉志「呂岱伝」)。

さらにこの年、曹操が自ら大軍の指揮を執って漢中の張魯を攻撃したことなど、これらが両陣営に和平の機運をもたらし、関羽と魯粛の対談が実現した(単刀赴会)。

会談は孫権側の魯粛のペースで進行し、関羽はしばしばやり込められた(『三国志』呉志「魯粛伝」)。

結局、湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽は孫権領に、南郡・武陵、そして一度は奪われた零陵が劉備領となった(『三国志』蜀志「先主伝」)。

建安22年(217年)の魯粛の死後、陸口に赴任した呂蒙は、関羽を警戒する計画をひそかにめぐらしていたが、表面的にはこれまで以上に関羽と親密に接した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。

しかし、関羽の荊州での統治ぶりは恩徳と威信がよく行き渡っていたため、なかなか機会を得ることができなかった(『三国志』呉志「陸遜伝」)。

あるとき、孫権から関羽に対し、関羽の娘に、孫権の子との婚姻の申し入れがあった時、関羽はこれを断り、孫権を怒らせた。

建安23年(218年)、侯音は宛で曹操に対して反乱を起こし、関羽と手を結んだ。

また魏に従わない反乱者や盗賊たちの中には、弘農郡陸渾県の孫狼のように関羽から印綬や称号を受けて魏に反抗する者たちもいた。

建安24年(219年)春正月、曹操の部将の曹仁と龐徳は宛を陥落させ、侯音を斬った。

同年秋、関羽ら群臣らが劉備を漢中王に推挙した。劉備が漢中王を称するようになると、関羽は前将軍・仮節鉞に任じられた。

同年、子の関平・都督の趙累らと共に樊城を守る曹仁を攻撃した。

曹仁の援軍として、七軍の指揮を執っていた于禁が駆けつけたが、折からの悪天候により大洪水が起こり、七軍は水没した。

関羽は船団を指揮して攻撃をかけ、于禁と彼が指揮を執っていた3万の兵を降伏させ、さらに樊城の北に駐屯していた龐徳を斬った。

また、このとき荊州刺史の胡修・南郷太守の傅方(中国語版)らが関羽に降っている。

関羽は樊城を完全に包囲し、別将を派遣して呂常が守る襄陽までも包囲した。

さらに関羽は方々に印綬をばら撒き、梁・郟・陸渾といった曹操領内の群盗などが一斉に蜂起し、中原は震動した。

同時に勢いに乗じた関羽は上庸の劉封・孟達に援軍を求めたが、上庸が安定していないことを理由に拒絶された(『三国志』蜀志「劉封伝」)。

曹操はこの事態に狼狽し遷都まで考えるほどであったが、曹操の配下の司馬懿と蔣済は于禁を弁護し、これ以前に和議を結んでいた孫権を利用して、長江南を領有することを条件に関羽を背後から攻撃させる策を提案し、曹操は孫権と密約を結んだ。

その一方で、徐晃を派遣して曹仁を救援させた。これにより関羽は、逆に曹・孫両軍に挟撃されてしまうことになる。

曹操の配下の董昭は曹操に「樊城の将兵の士気を高めるためと、関羽の我が軍への戦意を喪失させるために、孫権が殿と同盟を結び関羽の背後を攻めることを、樊城の我が軍と関羽に漏らすべきです」と提案した。

曹操はこの提案に従い、徐晃を介して樊城の曹操軍と関羽軍に孫権参戦の情報を伝えさせた。

この情報を聞いた樊城の曹操軍の士気は大いに上がった。

関羽は孫権への備えを当初はおこたらず、長江沿いに守備兵を置いていたが、呂蒙が病気と称して前線を離れたこと、さらに後任として陸口に派遣されてきた陸遜の謙った手紙にあっさり煽てられ警戒を解き、江陵・公安からさらに兵・物資を前線に送ってしまったという(『三国志』呉志「呂蒙伝」、「陸遜伝」)。

さらに孫呉討滅の恫喝、于禁ら降伏した曹操軍の捕虜3万を養う為に孫権軍の軍需物資を強奪したこともあった(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。

孫権は呂蒙・陸遜らに命じて関羽への攻撃を開始した。

劉備は糜芳に南郡を、士仁に公安を守備させていたが、両者は関羽との仲に隙があり、其処に着目した呂蒙は両者に誘いをかけ寝返らせ、関羽の拠点たる江陵・公安を奪った。

その後も陸遜らの働きで荊州の劉備領は次々に攻略されていった。

関羽は襄陽・樊城を落とせぬまま、徐晃に攻撃を受けて敗れ樊城の包囲を解いた。

その後、孫権は関羽軍の輜重を奪ったが、それを聞いた関羽は襄陽の包囲も解き、撤退した関羽は、使者を何度も呂蒙の元に送り連絡をとろうとしたが、呂蒙はそのたびごとに関羽や関羽の部下の妻子たちを捕虜にして厚遇していることをわざと使者に知らせた。

使者の口からこのことを知った関羽の部下たちは敵対心を失って、やがて関羽の軍は四散し、大半の将兵が孫権軍に降伏した(『三国志』呉志「呂蒙伝」)。

関羽は当陽まで引き返したのち、孫権が江陵に自ら軍を率いてきていることを知り、西の麦城に逃走した (『三国志』呉志「呉主伝」「呂蒙伝」)。

孫権から降伏を勧告する使者が派遣されてくると、関羽は降伏を受けるふりをして逃走した(『三国志』呉志「呉主伝」)。

しかし219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首された。

群雄・関羽の首級は、孫権の使者によって曹操の下へ送られ、孫権は諸侯の礼を以て当陽に彼の死体を葬った(『呉歴』)。

一方、曹操は諸侯の礼を以て洛陽に彼の首級を葬った(『関羽伝』)。

章武2年(222年)、関羽を殺された劉備は孫権に対して夷陵の戦いを起こしたが大敗を喫した。

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