【生誕地】 揚州呉郡呉県
【生誕】 永建元年(126年)
【死没】 興平2年(195年)
【字】 季寧

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概要 (説明はWikipediaより)

後漢末期の人物。

字は季寧。

本貫は揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)。

祖父の陸続は、『後漢書』独行伝に伝が立てられている。

父は陸褒。

子は陸儁・陸績・顧雍妻。

孫は陸尚。

従孫に陸遜がいる。

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若いころ義烈を以って称えられ、刺史の臧旻により茂才に挙げられ、勃海郡高成県令となった。

治績を評価されて光和元年(178年)に武陵太守となり、つづいて桂陽・楽安の守りを評価された。

霊帝の時代、銅銭を鋳造する財源を確保するため、耕地に税をかけようとしたことに反対し、上表した。

しかしその表現について大不敬であるとの讒言を被り、檻車によって廷尉に引き渡された。

侍御史の劉岱がこれを担当し、釈明したために免官で済み、後に召されて議郎となった。

霊帝の末ごろに、揚州廬江郡の賊である黄穣らが、隣接する荊州江夏郡の蛮夷ら十余万と結び、乱を起こしたため、朝廷は陸康を廬江太守として派遣した。

陸康は賞罰を明らかにして黄穣らを撃破し、残りの者の降伏を受け入れ乱を鎮めた。

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献帝が即位すると天下は大いに乱れたが、陸康は困難を冒して孝廉と計吏を送った。

詔書によって忠義将軍の官を加えられ、秩石は中二千石だった。

興平元年(194年)、寿春を本拠としていた袁術が、徐州牧陶謙の死に乗じて徐州を攻めようとし、陸康に兵糧の援助を求めてきたが、陸康はこれを拒絶し交戦状態となった。

陸康は袁術が送り込んできた孫策率いる袁術軍に、廬江郡の治所である舒県を囲まれる。

その前の中平4年(187年)に孫策の父である孫堅は陸康の従子の宜春県長を救った。

そのため孫策は舒県に住んでいるとき、陸康に謁見したが、陸康が孫策に対して無礼な態度を取ったため、孫策との間に遺恨を生じた(孫策伝)。

足掛け2年にわたる包囲のあと、舒は陥落、陸康はその1月ほど後に病に斃れ死去した。

享年70。

宗族百余人は離散し、飢えに晒されて半数近くが死亡した。

朝廷はその守節を哀れみ、子の陸儁を郎中とした。

攻撃する前に、陸康の手配によって、陸績・陸遜と親戚らは故郷に帰っており、後に一族を挙げて孫権に仕えることになった。

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