【生誕地】 兗州山陽郡高平県
【生誕】 漢安元年(142年)
【死没】 建安13年8月(208年10月)
【字】 景升
【主君】 何進→独立勢力
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[sangokushi-1]概要 (説明はWikipediaより)
中国後漢末期の政治家・儒学者。
字は景升(けいしょう)。
兗州山陽郡高平県(現在の山東省済寧市微山県)の人。
前漢の景帝の四男の魯恭王劉余の六男の郁桹侯劉驕の子孫。
後漢の統制力が衰えた後に荊州に割拠した。
劉表は若い頃太学で儒学を勉強しており、崇高な声望を得た。
党錮の禁において、劉表は清流派の党人の中で「八及」と称されており、熹平5年(176年)に霊帝からの追及を受ける身となった張倹の逃亡を助けた際、自らも追われる身となった。
黄巾の乱により党錮の禁が解除された中平元年(184年)に大将軍の何進に招かれ、後に北軍中候に転任した。
霊帝死後に詔勅によって荊州刺史王叡の後任に任じられ、劉表は任地に向かった。
しかし、長江南岸は土豪が割拠していたため、州治である漢寿に赴かず北部の宜城に入り、蔡瑁・蒯越・蒯良らと図って不穏分子を鎮圧し、荊州北部を支配下に治めることに成功した(後に州治を宜城近くの襄陽に移している)。
[sangokushi-2]初平元年(190年)、各地で反董卓の義兵が挙げられると、劉表もこれに加わった。
初平3年(192年)、袁術の意を受けた孫堅が荊州に侵入した。
劉表は黄祖に命じてこれを防ぎ、袁紹と同盟して対抗した。
黄祖は苦戦したが孫堅を討ち取り、荊州を守り抜いた(襄陽の戦い)。
初平4年(193年)、李傕らが実権を掌握する朝廷から、劉表は仮節・鎮南将軍・荊州牧に任じられ、また成武侯に封じられた。
同年、袁術と曹操が争うと、袁術の糧道を断ち、袁紹と協調関係にあった曹操を支援した。
張済が食料不足により荊州の穣城を攻撃したが、流れ矢に当たって死んだ。
劉表は「張済は困窮したから荊州に来たのに、私が礼を尽くさなかったから戦争をすることになってしまった。これは私の本意ではない」と言い、旧張済軍を受け入れた。
旧張済軍はこの言葉を聞いて劉表に服従した。
その後、曹操と袁紹は敵対するようになる。
劉表は引き続き袁紹に与して、旧張済軍の張繡と同盟を結び、曹操と戦った。
建安3年(198年)、曹操が張繡の駐屯する穣県を攻囲した。
劉表は援軍を送って曹操軍の背後を脅かすと、張繡とともに挟撃しこれを破った。
しかし敗走する曹操を追撃する際、伏兵にかかって両軍とも敗れた。
建安4年(199年)11月、張繡は軍勢を引き連れて曹操に降伏した。
建安5年(200年)、官渡の戦いに際して劉表は袁紹から救援を要請された。
これに先立って、長沙太守の張羨が桓階の提案に従い、長江・湘江一帯の住民を扇動して劉表に背いていた。
劉表は張羨を討つべく自ら出征しており、結局袁紹に援軍を送らなかった。
韓嵩・劉先・蒯越らは、袁紹ではなく曹操に味方するよう劉表へ進言したが、これを拒否した。
その後、張羨は病死し子の張懌が反乱を続けたが、劉表は反乱を鎮圧し、長江の南岸を勢力圏に組み入れた。
[sangokushi-3]建安6年(201年)、汝南から劉備が身を寄せて来ると、劉表はこれを受け入れた。
劉表は劉備を新野に駐屯させ、曹操への備えとした。
建安8年(203年)、曹操が荊州へ侵攻し西平に駐屯した。
すると、まもなく河北では袁譚と袁尚が争うようになった。
曹操は袁譚と同盟を結び、袁尚を攻撃するために撤退した。
この戦いの前後に、劉表は劉備を博望に派遣し、夏侯惇・于禁らの率いる軍を退けている。
建安12年(207年)、曹操が遼東に遠征すると、劉備はその留守を狙うよう進言したが、劉表は進言を退け動かなかった。
建安13年(208年)、曹操が荊州に侵攻を開始。
劉表は曹操が荊州入りする直前に病死した。
享年67。
劉表の死後、庶子の劉琮が家督を継いだが、州を挙げて曹操に降伏した。
劉表の兵は曹操に吸収された後、文聘が率いることとなった。
長男の劉琦は劉備に荊州牧として擁立されたが、翌年死去した。
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