【生誕地】 并州太原郡晋陽県
【生誕】 不明
【死没】 259年
【字】 文舒
【主君】 曹丕→曹叡→曹芳→曹髦

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概要 (説明はWikipediaより)

中国三国時代の魏の武将・政治家・学者。

字は文舒。

并州太原郡晋陽県(現在の山西省太原市晋源区)の人。

父は王沢。

伯父は王柔。

兄は王機。

子は王渾(玄沖)・王深(道沖)・王淪(泰沖)・王湛(処沖)。

甥(兄の子)は王黙(処静)・王沈。

『三国志』の魏志に伝がある。

父と伯父は、後漢の郭泰(郭林宗)に認められ出世した人物である。

王昶は若い頃から同郡出身の王淩とともに名を知られ、年上であった王淩に弟分として仕えた。

曹丕には太子時代から仕え、太子文学・太子中庶子に採り立てられた。

魏が禅譲により成立すると、散騎侍郎から洛陽の典農校尉となり、田畑の開墾に功績を挙げたため、兗州刺史となった。

曹叡(明帝)が即位すると揚烈将軍・関内侯となった。

この時期に、法律や兵学についての著作に励み、子や甥の教育にも努めた。

『治論』・『兵書』・『家誠』など、多くの著述がある。

青龍4年(236年)、賢人を求める詔勅が下されると、司馬懿に推挙された。

正始年間、徐州方面に赴き武観亭侯となり、やがて征南将軍・仮節・都督荊豫二州諸軍事となり、荊州方面で呉と対峙する重職を担った。

当時、荊州諸軍事の役所は宛にあったが、呉との前線である襄陽まで遠く交通に不便であったため、新野に移して水軍を訓練し、開墾をするなど農業生産に力を入れ、穀物を備蓄した。

曹爽が誅殺されると司馬懿は上奏し、臣下一同に対し国政について意見を募った。

王昶は教育と人事を中心に五箇条からなる提言をした。

嘉平2年(250年)、呉が二宮の変以後弱体化していると主張し、呉征伐を上奏し実行した。

新城太守の州泰に巫・房陵方面、荊州刺史の王基に夷陵方面を攻撃させ、自身は江陵(南郡)方面を攻撃し、呉の朱績を物量と兵器で圧倒し敗走させた。

さらに江陵城に逃げ込んだ敵を誘い出すために、撤兵する振りをしつつ、討ち取った敵の首を馬に括り付けてわざと敵軍を怒らせた。

呉軍側の諸葛融軍が約束を破り来援しなかったため、追撃してきた朱績を伏兵により散々に破り、その将軍の鍾離茂・許旻らを斬った。

しかしその後、江陵城を包囲するも落とすことができず、呉の陸凱達が援軍に現れたため撤兵した(呉志「呉主伝」)。州泰・王基もそれぞれに軍功を挙げた。

この功績により征南大将軍・儀同三司に任命され、京陵侯に爵位を進めた。

司馬師が実権を握った時代には、胡遵・諸葛誕・毌丘倹・陳泰と共に四方の都督の一人として名が挙がる存在であった(『晋書』景帝紀)。

嘉平4年(252年)、呉の孫権が死去すると胡遵や毌丘倹と謀り、再び征呉を計画し、三方向からの共同作戦の一環で再度江陵(南郡)を攻撃した。

しかし、東興で胡遵と諸葛誕が呉の諸葛恪に敗れたため、武昌攻撃に赴いた毌丘倹と同様に陣を焼き払い撤退した(魏志「三少帝紀」が引く『漢晋春秋』・呉志「三嗣主伝」)(東興の戦い)。

正元2年(255年)、毌丘倹と文欽が反乱を起こした時は、兵を率いてこれに抵抗した功績で2人の子が列侯され、自身は驃騎将軍となった。

甘露2年(257年)、諸葛誕が反乱を起こした時は、江陵への攻勢を見せて朱績を牽制し、その勝利に貢献した。

戦後、詔勅により食邑を千戸を加増され、以前と合わせて4千7百戸となり、持節と都督の地位のままで司空となった。

甘露4年(259年)に亡くなり、穆公と諡された。

阮籍と会った時、彼の人物の大きさに感嘆したという逸話が残っている。

子と共に甥を養育し、慎み深くあるように訓戒を与え、名と字もそれに因んだものとした記録がある。

その際に魏諷のような謀反人だけではなく、旧知の郭奕や劉楨の人となりをも批判した点が、裴松之により問題とされている。

小説『三国志演義』では、孫権死後の三方向への共同作戦の時に、名が挙がるのみである。

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